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その夜、天はまだ静寂を知らなかった。神の宮殿《セラディア》では、無数の光が波打ち、
天の調べが永遠に続くと思われていた。
光の第一天使――ルシエル。
神の右座に座し、創世の声を伝える唯一の存在。
その瞳は黎明の色を宿し、誰よりも強く、誰よりも美しく光を放っていた。
だが、その光の奥底に、”影”が芽吹いたのは、いつの頃からだっただろう。
彼はある夜、禁断の“地上”へと降り立った。
神が造り、人が棄てた花園――“エルダ・ノア”。
そこはかつて、光と闇が交わる境界に存在した場所。
今ではただ、朽ちた神殿の影が、月光に滲んでいる。
そして彼は、そこでひとりの女を見た。
夜の静寂に包まれたその女は、黒い衣をまとい、
胸元で小さな灯火を抱いていた。
それは、暗闇の中にわずかに残された“光の残滓”のようだった。
「……おまえは、誰だ?」
ルシエルが問う。
彼女は微笑んだ――悲しみの底から、微かな安らぎを滲ませるように。
「私は“夜を護る者”。
けれど、夜はもう死んだの。」
その声は、まるで祈りのように透き通っていた。
名を問えば、彼女はエリシアと名乗った。
その名が、ルシエルの胸を焼いた。
まるで遥か昔に、夢の中で呼んだことのある響きだった。
「光の君よ。
あなたの光は、あまりにもまぶしすぎる。
私の影は、あなたを見ることができない。」
そう言って、エリシアは目を伏せた。
その仕草は、堕ちる星のように儚く美しかった。
ルシエルは、その瞬間悟った。
――彼女こそが、神が“闇”として封じた存在。
夜の巫女エリシア。
かつて、神に愛されすぎたがゆえに消された“もう一つの光”。
その夜、天上で風が変わった。
彼が“触れてはならぬもの”に触れた瞬間、
空の色が僅かに翳ったのだ。
「それでも――おまえを見たい。」
ルシエルは囁いた。
「闇が光を拒むなら、私は光であることをやめよう。」
エリシアはその言葉を聞いて、微かに震えた。
“愛”という名の焔が、二人の間で生まれた瞬間だった。
そして――天が裂ける音がした。
雷鳴が、天界の中心を貫く。
無数の光の羽が焼け落ち、
神の声が、怒りとともに降り注いだ。
「光の子ルシエルよ。
汝は禁を破り、闇と契りを交わした。
その翼を奪い、永遠に天を追放する。」
エリシアが悲鳴を上げる。
ルシエルの翼が、黄金の炎に包まれ、
白は黒に変わり、彼の背から落ちていった。
その光景は、堕天ではなく――墜愛だった。
そして、堕ちゆく彼の耳に、エリシアの声が届いた。
「あなたが堕ちても、
私の夜は……あなたを照らすでしょう。」
その言葉だけが、彼の最後の救いだった。
ルシエルは、空を焦がしながら堕ちていった。
“暁”が崩れ落ちるとき、世界は初めて“夜”を知った。
――そして、天の光が消えたその日から、
世界は二度と、同じ朝を迎えることはなかった。