緋燕(ひえん)帝国、皇城の文官庁。下級文官の**胡桃(クルミ)**は、山積みの公文書に囲まれ、ひたすら文字を処理する日々を送っていた。彼女の唯一の情熱は「文字」そのもの。特に、古文書や暗号に隠された意味を解読することだった。
そんな彼女が、ある日突然、後宮の管理者である皇帝の末弟、**璃(リ) 永月(エイゲツ)**に呼び出された。永月は、絶世の美貌を持つが、胡桃にとっては「仕事の邪魔をする、目立つ厄介な存在」でしかなかった。
「見習い文官の胡桃か。お前に解いてほしい謎がある」
永月が依頼したのは、後宮で起きた**「暗号化された手紙と消えた宝石の謎」**だった。ある妃嬪の部屋から高価な装飾品が消え、代わりに呪いとも取れる奇妙な暗号文が残されたのだという。宮廷内は騒然としていた。
胡桃は「私の専門外です」と面倒くさそうに断ろうとしたが、永月が提示した「報酬」に目を奪われた。
「これを解いてくれたら、お前に**『古い時代の文字で書かれた、誰も解読できない謎の古文書』**を閲覧する権利を与えよう」
目の前に広げられた古文書は、胡桃の知的好奇心を刺激する、見たこともない奇妙な文字で書かれていた。一瞬で目が輝き、胡桃は頷いた。
「…条件付きで承諾します。解読が終わるまで、私に余計な雑務を押し付けないでください」
胡桃は事件の現場となった妃嬪の部屋に入った。壁に残された暗号文は、一見すると無意味な記号の羅列に見える。しかし、胡桃は妃嬪が趣味で集めていたという「特定の古典書物」に目を留めた。
「これは、この書物を鍵にした、単純な換字式暗号ですね」
妃嬪がその書物の何ページ目の何文字目に対応させて暗号文を作成したのか、胡桃は驚異的な集中力と記憶力で解読していく。そして導き出されたメッセージは、呪いや盗難の告白などではなく、妃嬪が自身の潔白を証明するために、**「盗まれたのではなく、特定の人物に返却した」**ことを示す内容だった。
その人物とは、妃嬪と幼馴染であったが、朝廷の権力闘争に巻き込まれて失脚した元貴族だった。妃嬪は、彼を助けるための資金を援助し、それが宝石の消えた真相だったのだ。
胡桃は淡々と永月に報告した。永月は、彼女の驚くべき推理力と、謎解きに没頭する時の冷徹なまでに美しい横顔に、奇妙な執着を覚え始めていた。
「素晴らしい。お前は本当に『文字』のことしか頭にないのか」
永月は、彼女をそばに置くため、強引に「皇弟専属・謎解き文官」という新しい役職を設け、胡桃を後宮に引き留めた。
胡桃は、古文書の解読を続けるうちに、永月の極度の偏食という隠れた弱点に気づいた。永月は多忙とストレスから食欲を失っており、まともに食事を摂っていない。
「璃永月様。古文書の解読作業を滞りなく行うため、報酬とは別に、あなたの健康状態の管理を報酬として要求します」
胡桃は、文官庁の裏手にある薬草園で手に入れた材料を使い、永月の体調を整える薬膳粥や栄養価の高い料理を作り始めた。胡桃にとってこれは、古文書解読をスムーズに行うための**「環境整備」**でしかなかった。
しかし、永月は胡桃が差し出す食事を渋々口にするうち、その味に感動し、次第に胡桃が作ったものしか口にしなくなる。
「これは…悪くないな。今日も用意しろ、胡桃」
永月は、彼女に褒美を与えるという建前で、美味しいものを食べるために胡桃をそばに置き、胡桃は古文書と謎解きのために、永月に薬膳料理を食べさせる、という奇妙な共犯関係が生まれた。
永月は、謎解きに熱中する胡桃の頬に粥粒がついているのを見て思わず拭ってやったり、冷えた指先に自分の手を重ねたりと、美貌と計算高さを駆使して彼女に迫るが、胡桃は常に文字と謎に夢中で、その行動を**「謎解き環境を整えるためのサービス」**だと解釈して、完全にスルーした。
胡桃は、ついに依頼された古文書の解読を終えた。その内容は、古代の**「幻の宮殿と宝物」**の場所を示すものであり、朝廷を揺るがすほどの重大な発見だった。
永月は、胡桃の類稀なる能力に改めて感嘆し、そして同時に、彼女が自分の手から離れてしまうことに焦燥感を覚えた。
「胡桃。お前の働きは、この帝国の歴史を変えるものだ。望む褒美を一つ選べ。金銀財宝、官位、それとも…この後宮から出て、私と共に自由に暮らす道か?」
永月は真剣な眼差しで、言葉を選ぶように尋ねた。これは、彼なりの精一杯の告白だった。
胡桃は古文書を閉じて、永月を見つめた。
「私の望みは、たった一つです。璃永月様。この古文書に関するすべての文献と、今後発見されるであろう文字資料の解読作業を、私の専属文官として続けさせてください」
永月は、自分の真剣な告白が、仕事に関する要求で返ってきたことに、一瞬言葉を失う。
永月: 「お前は…本当に、私に興味がないのか?」
胡桃: 「文字の羅列と、その意味を知ることにのみ興味があります。それよりも、この幻の宮殿を封じたという印章の文字が、まだ未解読で…」
胡桃は目を輝かせ、すぐに次の文字資料に夢中になった。永月は、力なく笑う。
「ふ、そうか。わかった。お前をこの世で最も権威ある**『専属・古文書解読官』**にしてやろう。そして…お前が文字に夢中になっているその背後から、私はずっとお前を口説き続けるとしよう」
胡桃は「どうぞご勝手に」という顔で文字を追い続けている。
永月にとって、胡桃という女は、朝廷の謎や古文書よりも、はるかに難攻不落で、興味をそそられる最大の謎となった。
美貌の皇弟と、文字にしか興味のない見習い文官の、不器用で遠回しなラブコメは、こうして始まったのだった。
— 完 —
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