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「進まない時間」
駅前の喫茶店の窓辺で、碧(あおい)は静かにカップの縁を指でなぞっていた。外は春の匂いがまじる柔らかな雨。ガラス越しに見えるのは、傘を差した人々と、車のテールランプが滲む午後五時の街並み。
「また、考え込んでるの?」
向かいに腰かける湊(みなと)が、優しく声をかける。その声に現実へと引き戻され、碧はほんの少しだけ微笑んだ。
「うん、なんだか今日は、時間が止まってるみたいで……」
壁時計の針は、ゆっくり、けれど確実に時を刻んでいるはずなのに、この席に腰かけたときから、何も変わっていないような気がした。
***
二人が出会ったのは大学の新歓コンパだった。碧は緊張しがちで人の輪が苦手、対照的に湊は場を和ませるタイプだった。
「君、緊張してる?アイスコーヒー好き?」
そんなふうに湊が声をかけてくれたことから、少しずつ距離は縮まった。湊となら、いつもの自分でいていい。そう思わせてくれる人だった。
あれから三年が経った。二人の関係は自然と寄り添うものになり、休日はこうしてカフェで一緒の時間を過ごすのが当たり前になった。
***
春の終わりごろから、湊は就職活動に苦戦していた。慌ただしくなった毎日の中で、二人の間にはわずかな隙間が生まれはじめていた。
湊は懸命に前へ進もうとしている。そのことは分かっていた。だけど、碧自身はまだ進路に迷い、どこにも進んでいない気がしていた。
「湊は偉いよ。ちゃんと未来考えて……」
ぽつりと漏れる本音に、湊は少しだけ驚いた表情をする。
「でも、碧が止まっているように感じるのは、オレもちょっと寂しいんだ。」
一瞬、胸が締め付けられる。
「オレは……前に進んだら、碧と今みたいに一緒にいられなくなるんじゃないか、それが怖いんだ。」
思わず溢れた言葉に、湊は静かに頷く。
「大丈夫。たとえ違う場所にいても、碧と一緒にいる方法をオレは探し続ける。進んだ先で、もう一度一緒に時間を重ねようよ。」
***
翌週、湊は志望する企業から内定をもらったと連絡をくれた。
駅前で二人は並んで座り、窓越しの雨をぼんやりと見つめる。
「怖い気持ちは、きっとずっとなくならない。でも――」
湊が碧の手を優しく握る。
「止まったままの時間を愛おしめるのは、きっと今だけだよ。前に進む勇気も、ゆっくりでいいと思う。」
胸の奥に小さなあたたかさが灯る。進まない時間は、決して無駄じゃなかった。迷いの中で、心は確かに湊と寄り添っていた。
「ありがとう、湊。いつか、進んだ先でまた一緒に笑おう。」
二人の目に映る雨の景色が、少しだけ晴れやかに見えた。
進まない時間の中で生まれた絆は、どんな未来よりも、確かにそこに在った。
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