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視点、陽姫
夕食の時間。ダイニングテーブルの上には、美佐子さんが作った温かいポトフの湯気が立ち上っていた。
私は、いつものように笑顔で「いただきます」と言った。おにいちゃんは、昨日と変わらず無言で席についている。ただ、彼と私の間には、昨日まではなかった、凍ったような空気が漂っている。
美佐子さんは、その異変に気づいていたかもしれない。しかし、彼女は何も尋ねず、いつも通り穏やかに微笑んでいる。その笑顔を見るたび、私の胸はチクチクと痛んだ。私は、この優しい伯母を欺いている。
「美佐子さん、ポトフのブロッコリーの色、綺麗だね。茹ですぎてないから、鮮やかな緑色が残ってる」
私は、意図的に「色」に関する会話を始めた。おにいちゃんは顔を上げないが、彼の耳がこちらを向いているのが分かった。
「ふふ、ありがとう、ひなちゃん。食べ物の色は、美味しさの決め手よ。色を殺しちゃだめなの」
「色を殺す……」
私は祖母の言葉を反芻した。祖母は言った。『箱は、美佐子の才能が死んだ場所に置かれるでしょう』と。
美佐子さんは、「色を殺す」ことを恐れている。では、美佐子さんにとって『色が死んでいる場所』とは、単に暗い場所ではない。色を活かせない、色が存在しない、あるいは色を拒絶した場所だ。
夕食後、私は自分の部屋に戻らず、美佐子さんの家の使われていない空間を、時間をかけて観察し始めた。
おにいちゃんが鍵を持っているから、今夜中に小箱を開けることはできない。しかし、場所さえ突き止めれば、鍵を取り返すか、あるいは美佐子さんに真実を打ち明ける段階へ進める。
美佐子さんの家は、リビングやキッチン、寝室は常に整理整頓され、温かい色に満ちている。
・リビング: 暖色系のラグ、生花、明るい木の家具。→ 色が生きている。
・キッチン: 色鮮やかな食器、新鮮な野菜。→ 色が生きている。
・美佐子さんの寝室: 落ち着いた色合いだが、手編みのブランケットなど温かいテクスチャがある。→ 色が生きている。
私が向かったのは、ほとんど使われていない二つの空間。
家族全員の古い靴や、壊れた掃除機などが押し込まれている。埃っぽいが、美佐子さんが時々掃除している気配がある。
「ここはただの雑然とした場所だ。美佐子さんが夢を諦めた誓いの場所にはふさわしくない」
私はそう判断し、次の場所へ移動した。
この家に来て七年、一度も開けられたのを見たことがない場所だ。美佐子さんは、この家の間取りを説明するときでさえ、この収納について言及しなかった。
私は扉に手をかけた。古い木製の扉は、重く、微かに埃っぽい匂いがした。
扉を開けると、そこは完全に暗闇だった。電気もない。スマホのライトを頼りに中を照らしてみると、中はがらんどうで、ただ古い木材と石膏ボードの壁があるだけ。
唯一、部屋の隅に、大きな灰色の布がかけられた、家具のようなものが置かれていた。
「これだ……」
その空間は、まるで「色が塗りつぶされた」ようだ。壁も床も、全てが暗く、何の色も反映していない。そして、この空間には、生命の気配が全くなかった。美佐子さんの家の中で、唯一、美佐子さんの温かい色が失われた場所。
私は、その灰色の布に近づいた。布は分厚く、下にあるものが何なのか全く分からない。布の上には、薄く埃が積もっている。美佐子さんがここを最後に開けてから、かなりの時間が経っている証拠だ。
そっと布の端をめくってみた。
そこにあったのは、木製の巨大なイーゼルだった。
「アトリエ……」
イーゼルは、美術の道具を立てかけるためのもの。これこそが、祖母が言った、美佐子さんとお母さんが夢を追いかけた「アトリエだった場所」であり、美佐子さんが「もう二度と色の入らない形は作らない」と誓いを立てた、『色が死んだ場所』に違いない。
イーゼルには、何も立てかけられていない。しかし、その足元に、木材でできた小さな台のようなものが置かれていた。
私は布を全て剥がした。
それは、飾り気のない、完璧な正方形の木製の台座だった。台座には、細かな木目の模様があるだけで、色彩は一切ない。そして、その中央には、おにいちゃんが奪った鍵がぴったりと合うであろう、小さな鍵穴がついていた。
『希望の小箱』。
それが、小箱そのものではなく、小箱を乗せるための台座だったとしても、美佐子さんが最も古い記憶の場所であるアトリエに、美佐子さんの才能を注いだ『形』を置いていたことに間違いはなかった。
しかし、その台座の上には、肝心の『小箱』は置かれていない。
「美佐子さん……小箱は、どこに……?」
私は絶望的な気分になった。鍵はおにいちゃんが持っている。そして、小箱自体がここにはない。
その時、台座の横に、美佐子さんの筆跡で書かれた小さなメモ書きが貼られているのに気づいた。
「サクへ。あなたが、『待つ優しさ』ではなく、『行動の優しさ』を選んだ時、鍵を使いなさい。ひなの光が最も必要とされる場所で、小箱はあなたたちを待っている。」
ひなは、自分がおにいちゃんに鍵を奪われたことさえ、美佐子さんに気づかれていたことを悟った。
そして、美佐子さんは、この場所を知っていて、彼らの行動を見守っていた。