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スタジオの空気は、いつも通りに澄んでいた——そう、思っていた。
けれど、その静けさの中に、ごくわずかに、水底に沈んだ針のような違和感が漂っていた。
午後、窓のブラインドの隙間から柔らかな陽が差し込む。
斜めに落ちる光は、床に細い線を描きながら、目に見えない境界をなぞっていく。
木目をなぞるように、その線は静かに伸び、部屋の中に静かな影を落としていた。
スピーカーからは、いつもの楽曲が流れていた。
ビートが身体の奥に響き、リズムに合わせて足取りが滑らかに刻まれていく。
前方で踊るふたつの影が、迷いなくステップを踏む。
呼吸も、視線のタイミングも揃っていて、振り返ることなく次の動きへと進んでいく。
その背中を追うように、もう一組のペアがわずかに遅れて動いた。
動きに乱れはない。
呼吸も、仕草も、揃っている。
それでも、どこか奥底で、言葉にならない感情が静かに泡立ちはじめていた。
「……はやと、この次の振り、こうしたほうが見栄えよくない?」
鏡越しに交わされた言葉は軽やかで、自然だった。
「あ、たしかに。なおやらしい、それ。じゃあ、それにしよ。」
短く、端的なやり取り。
互いの意図を汲む速さに、空気までもが引き締まる。
その様子を、鏡の端でひとつの視線がじっと追っていた。
(……言葉じゃなくても、通じるものがあるんだ)
重なるステップ。
合図のないタイミング。
それでも揃う手の振りや、すれ違う瞬間の身体の角度。
まるで呼吸のように、ふたりは動いていた。
「えいくー?」
声をかけられ、はっとして顔を上げる。
「あ、うん……ごめん、ちょっと集中切れてた」
「無理しなくていいから」
返ってきたのは、変わらないやさしい声。
なのに、どこか遠くに感じられて、届きそうで届かないその距離に、胸がふと締めつけられた。
休憩時間。
スタジオの片隅、ベンチに腰を下ろし、水のボトルをゆっくりと傾ける。
視線の先、反対側ではふたりが踊りの確認をしていた。
指先を合わせ、身振りを揃え、映像の中の一瞬を再現するように動いている。
(……また、あのふたりか)
脳裏に浮かぶのは、自分のすぐ隣にあったはずの距離。
なのに今、その隣はぽっかりと空いていた。
ほんの少し前なら、そこには笑い声や、温かな息づかいがあったはずなのに。
「えいく、ちょっと来て。これ、昨日の素材なんだけど」
呼ばれて立ち上がり、差し出されたタブレットをのぞき込む。
映っていたのは、昨日のYouTube撮影の素材だった。
「……あ、ここ。てったの顔の角度ばっちりじゃん」
「ほんと? 良かった……」
柔らかく笑う声。
その横顔を見つめながら、言葉にはならない想いが胸の奥に浮かび上がる。
少し離れた場所から、弾んだ声が聞こえてきた。
「なおや、料理めっちゃ雑だけど、スープだけは本当にうまかったんだよな」
「それ褒めてる?」
「褒めてるって!」
笑い声がふわりと空気に広がる。
けれど、その輪の中でふたりの姿だけが、どこか淡く、遠く見えた。
目を細めれば、温度の違いさえわかるような気がした。
どれだけ近くにいても、踏み込めない場所がある。
そのことを、ほんのわずかな“視線の間”が教えていた。
夕方。
穏やかな灯りの揺れるダイニングバーの席。
円卓を囲み、自然と斜め向かいに座る。
注文を終えると、静かにグラスが手に取られた。
「今日も一日お疲れさま」
グラスの音が静かに鳴り合い、束の間、心がほどけた気がした。
けれど、それも波の引き際のように、音もなく引いていく。
グラスとグラスが交わったその瞬間。
無意識に、その視線の交差をじっと見つめてしまった。
(……やだな、こんなふうに思うの)
笑顔が自然に浮かばなくなる。
自分は“今”の隣にいるけれど、“過去”の写真にはいない。
思い出の中に、自分の輪郭がないことに、今さら気づいてしまった。
隣では、静かに水を飲み干し、目を伏せる姿があった。
笑うタイミングを探しては見失い、そのたびにまたグラスに口をつける。
いつも通りに過ごしたいのに、心だけが少しずれていく。
夜。
駅へと続くなだらかな坂道。
街灯が静かに照らし、アスファルトに淡い光がにじんでいる。
少しだけ歩幅が合わないまま、ふたりの足音が並ぶ。
「……あのふたりって、やっぱ特別だよね」
哲太の低く抑えた声が、夜の静けさに溶けていく。
「うん。長い時間一緒にいた分、当然かもしれないけど……ちょっと、悔しくなるんだよね」
言葉にして初めて、胸の奥にあった重さの正体が明らかになる。
「俺も。笑ってる顔、好きなんだけどな。あいつ、はやとと一緒にいる時が、一番楽しそうに見えるんだよな」
その言葉は、拗ねたようでもなく、ただ真っ直ぐで、優しい本音だった。
夜風が頬を撫でる。
重なりそうで重ならないふたりの影が、そっと肩を寄せるように歩幅を揃えていく。
言葉はそれ以上、続かなかった。
けれど、沈黙の中に生まれたぬくもりは、互いの距離をそっと近づけていた。
小さな嫉妬が芽生えた夜。
でも、それは——心がようやく動き出した、何より確かな証だった。
ふたりだけの時間が、静かに、確かに、息をし始めていた。