テラーノベル
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目の前の彼女は、昨日の出来事を「記録」としてしか覚えていない。あの廊下で涙を流しながら消えていった彼女の「寂しさ」は、もうどこにも存在しない。ここにいるのは、データを注ぎ込まれただけの、見知らぬ「美月」だった。
「お兄様?」
翼は震える手を伸ばし、彼女の髪をそっと撫でた。美月は驚いたように目を丸くし、それから嬉しそうに目を細めた。
「まあ、珍しいことですね」
「……おはよう、美月」
かすれた声で、それだけ言うのが精一杯だった。
その日の午後、美月が買い出しに出かけた。その隙に、翼は動き出した。
拭えない違和感があった。死の間際、美月は「同期はできない」とはっきり言った。脳が完全に停止した彼女から、どうやって新しい個体へ記録が移されたのか。
翼は車椅子を漕ぎ、普段は立ち入りを禁じられている地下の研究施設へ向かった。
重い扉を開けると、冷たい空気と消毒液の匂いが澱んでいた。部屋の中央には、予備の肉体を保管するはずのガラスカプセルが並んでいる。
しかし照明は消え、カプセルの培養液はどれも黒く濁り、腐敗していた。
翼は端末を操作し、管理ログを呼び出した。画面に浮かんだ一行に、息が止まる。
『オリジナル遺伝子保存個体 天城美月 完全死亡』
美月のオリジナルは、数ヶ月前にすでに死亡していた。予備の肉体もすべて細胞が壊死し、新しい個体を作るラインはとうに停止していた。
「では……今朝の美月は、どこから来たんだ?」
最近の反応の遅れ。爪の生え際からにじんでいた液体。すべては、肉体が限界を迎えていた兆候だった。今朝、髪を撫でたときの、あの冷たさを思い出す。
部屋の隅に、錆びた作業台があった。近づくと、鉄錆と血の匂いが混ざり合っていた。台の上には、細い外科用のメスや糸が散らばっている。
翼は昨夜のシステムログを開いた。最後の数行が、画面に浮かぶ。
『昨夜 三時〇〇分 残存パーツの回収プロセス開始』
『昨夜 四時十五分 廃棄個体への肉体パーツ強制縫合、再起動成功』
翼の全身が震えた。
昨夜、回廊で抱きしめていた美月の亡骸は、処理班に片付けられたのではなかった。彼女は機能停止する直前の脳に刺激を送り、自分の死体を地下室まで引きずって戻ったのだ。そして、腐敗しかけていた過去の廃棄個体から使える皮膚と関節を切り取り、自分の身体に縫い合わせた。
逃げなければ。
そう思った瞬間、背後の暗闇から、足音が聞こえた。
規則正しい、けれどどこか重い足音。買い出しに出かけたはずの彼女が、なぜここにいるのか。
「お兄様」
背後から声がした。いつも通り澄んだ、けれどかすかに震える声。
「こんな冷たい場所へいらしたのですね。さあ、暖かいお部屋へ戻りましょう」
翼は車椅子を振り返らせた。そこに立っていたのは、今朝見送ったはずの美月だった。
しかし、その姿は痛々しいものだった。衣服の隙間から、黒い糸で不器用に縫い合わされた跡が覗いている。頭部と首、胴体の皮膚の色がわずかに違い、死んだパーツを無理やり針で固定しているのが一目でわかった。歩くたびに、首元の縫い目から黄色い体液がにじみ、エプロンを汚していく。
翼は恐怖に身をすくめた。しかし彼女の顔を見た瞬間、それは胸をかきむしられるような痛みに変わった。
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美月の瞳は濁り、薄い膜が張ったようだった。焦点は定まらず、反応の遅れは今朝よりもずっと長い。脳の細胞が崩壊しているのは明らかだった。それでも、彼女の表情に恐ろしさはなかった。
美月は、切ないけれどひたむきな笑みを浮かべていた。
「お兄様、驚かせてごめんなさい。もう大丈夫です。少し、服を汚してしまったので、繕うのに時間がかかりましたの」
彼女は、自分の身体がどれほど異形になっているか、気づいていないようだった。あるいは壊れかけた脳が、都合のいい幻を見せているのかもしれない。それでも彼女は、自分が「元通りの美月」だと信じ切っていた。
「私は美月ですよ、お兄様。あなたのたった一人の妹です」
美月は一歩ずつ近づき、翼の前にひざまずいた。濁った瞳から涙を流しながら、彼の手をそっと握った。その手は氷のように冷たかったが、握る力には確かな愛おしさがあった。
「私の代わりは、もうどこにもありません。地下の機械も、みんな眠ってしまいました。私が壊れたら、誰もお兄様をお守りできなくなってしまいます。それだけは、嫌だったのです」
彼女を動かしていたのは、防衛のプログラムではなかった。
――お兄様を、ひとりにしてはいけない。
ただそれだけの純粋な想いが、死んだ身体を無理やり繋ぎ合わせ、彼女をここまで歩かせたのだ。
「今日は、お兄様の好きなアールグレイを、上手に淹れられましたの。冷めないうちに、ご一緒しましょう」
彼女は翼の身体をそっと抱き上げた。その腕から伝わるのは、腐敗していく肉体の冷たさと、命を懸けて兄を慕う想いの、両方だった。
この子はもう、人間ではない。以前の美月の姿すら保っていない。それでも彼女は、たった一人、自分を守るためだけにここにいる。
翼はこみ上げる涙を抑えられず、彼女の首の縫い目を見つめながら、冷たい肩に顔を埋めた。
「……そうだね、美月。お茶にしよう。君の淹れてくれたお茶が、一番美味しいからね」
「はい、お兄様」
美月は嬉しそうに目を細めた。
歩くたびに骨のきしむ音を響かせながら、二人は地下室をあとにした。
終わることのない、優しく、壊れた日々が、また静かに始まる。
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