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「ん……?」
ベンチに座るオレの膝の上に乗る舞華の頭がピクリと動いた。軽く開いた唇から吐息が漏れ、閉じられた瞳のまつ毛が微かに動く。
「あれ……? ここは……?」
ゆっくりと瞼が開き、まばたきを繰り返す舞華。そして、虚ろな瞳とオレの視線がぶつかった。
「おはよう。目が覚めた?」
「あれ……優月さん?」
オレに膝枕をされているという現状が把握できないのであろう。舞華はキョトンとした顔で、更にまばたきを繰り返す。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「…………って、優月さんっ!?」
視線を合わせたままの僅かな沈黙の後、舞華は突然目を見開いて勢いよく上体を起こし――
「す、すみませ、にょあぁぁぁっ!?」
いや、上体を起こそうとした途端に身体を硬直させて、ナニやら可愛らしい悲鳴を上げた。
「急に起き上がろうとするから……ほら、ゆっくりと起き上がって」
オレは背中を支えるようにして、舞華を隣に座らせた。
試合を終えたばかりのオレと舞華の座るベンチの周りには、試合を見学していた全員が集合している。
「え、え~と……わたし、どうして……?」
「佐野を投げたんだよ。ジャーマンで……たいしたもんだ」
舞華の独り言みたいな問いに答える智子さん。その鬼コーチの顔には、練習や試合の時には絶対に見せない笑みが浮かんでいた。
「えっ? じ、じゃあ、あれは夢じゃなかったんですか?」
「ああ、綺麗に投げられたよ。タイミングも悪くなかった」
「えへへぇー♪」
オレがポンポンと軽く頭を叩いてやると、舞華は嬉しそうな笑顔をみせた。
「さて、舞華も目を覚ました事だし、もう一度確認するぞー」
パンパンと手を打ちながら、佳華先輩が一歩前に出る。
そして一拍置きながら、その場にいる全員を見渡して話を切り出す佳華先輩。
「旗揚げ興行のメインイベント。栗原かぐやと佐野優月のシングル戦に文句のあるヤツはいるか?」
真剣な表情で佳華先輩を見詰める新人達。そして佳華先輩の予定通り、新人達の中に手を挙げる者は居なかった。
仕方ない……
オレはささやかな抵抗とばかりに、ダメ元で手を挙げてみる。
「よしっ! 居ないな。では全員一致ということで、メインはかぐやと佐野で決まりだ!」
スルーですか……?
手を挙げたままで佳華先輩を睨むように視線をぶつけるが、先輩の方はコチラを見ようともしないし。
「社長……一つよろしいでしょうか?」
と、ここで、オレとは別の手が挙がった。
「なんだ愛理沙? やっぱり納得行かないか?」
「いえ、優月さんは社長とコーチも認めておられるようですし、わたくし自身も彼女の実力は認めております。ですので、優月さんがメインを張る事に異論はありせんわ」
異論は無いんだ……
「それだけに分かりません。優月さんは何者なのですか? いえ、本当にデビュー前の新人なのでしょうか?」
「そうそう、ホントは他団体とか海外でヤッてたんじゃないんッスか?」
「確かに……マスクとか被っていたなら、見た事なくても不思議じゃないですし」
新鍋さんの疑問に同調する江畑さんと舞華。
「いいや。本当にプロレスはデビュー前の新人だ」
佳華先輩は、新人達の疑念を真っ向から否定する。そして、その言葉に智子さんが一歩前に出て、更に言葉を繋げた。
「だからと言って、そう落ち込む事はないぞ。なんたってコイツは、空手四段に柔道が二段。そして高校時代には|大人《シニア》のフルコンタクト空手大会で全国優勝もしてるしな」
「それと体操の|高校総体《インターハイ》で全国大会にも行ってるしね」
続いて一歩前に出たかぐやが、まるで自分の事のように胸を張る。
三人の言葉に目を丸くする新人達。まあ本当の事ではあるのだけど、オレとしては全てプロレスラーになる為にして来た事なのだ。夢を断たれた今となっては、胸を張る気にはならない。
「ちょ……ちょっと待って下さいまし! なおさら分かりません。それだけの経歴があるなら、わたくしが知らないはず有りませんわ。なにより、わたしくの作らせた女性格闘家のデータベースでも『佐野優月』なんて名前は見た事もありません」
「女性格闘家のデータベースねぇ……まっ、載ってないのも当然だな」
新鍋さんの言葉にイタズラっぽく笑う佳華先輩。
「どういう事ですの?」
「『佐野優月』って言うのは、いわゆるリングネームだからな。しかも、ついさっき決めたばかり。いくら新鍋家のデータベースが優秀でも、さすがに載って無いだろう――でもまあ、多分本名の方も載って無いと思うけどな」
確かに載って無いだろう……てか載っていたら怖い。
しかし、新鍋さんの方は自分のデータベースとやらに、よほど自信が有るのだろう。佳華先輩の言いように顔を曇らせる。
「それで社長……優月さんの本名というのは、教えて頂けますのでしょうか?」
「ああ、ソイツの本名は――」
「ちょ、ちょっと待ったーっ!!」
オレは慌てて立ち上がり、佳華先輩に詰め寄った。
「まさか、このタイミングでバラすんですかっ!?」
「まさかも何も、絶妙のタイミングじゃないか?」
そ、そうなのか……?
「いやいや、でもまだ心の準備が出来てないってゆうか――」
オレはチラッと新人達の方に一度目を向けてから、佳華先輩の耳に口を寄せた。
「てゆうかむしろ、もうバラさなくてもいいんじゃないですか? 顔合わせも済んだし、あとは試合の日まで優月は封印――もしオレが試合に負けて優月を続けなくっちゃならなくなったら、その時にバラすという事で」
そう。試合にオレが勝てば、優月の存在は消滅するのだ。オレとかぐやの試合を了承してくれたのであれば、別に正体を明かす必要はないのである。これ以上、オレの黒歴史を知る人物をムリに増やす必要はない。
「そんなワケに行くか! だいたいお前、練習はどうする気だ? 男の格好のまま、道場で練習は出来んだろ?」
オレと同じようにオレの耳に口を寄せ、小声で話す佳華先輩。
「その辺はまぁ~……自主トレで何とかします」
「却下だ。お前には負けて欲しいけど、練習不足で無様な試合はして欲しくない」
「イヤしかし――」
「しかしもお菓子も腐女子もない――詩織、頼む」
話は終了とばかりにオレの耳元から顔を離すと、佳華先輩は指をパチンと鳴らした。
「了解」
直後、全く気配を感じなかった背後から平坦な声が聞えてくる。そしてそれと同時に、膝から力が抜けて床に崩れ落ちた。