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百子はしおしおと実家を後にした。何らかの反発があることはある程度予想はしていたものの、これほどまで父に反対されたことと、まさか陽翔の家の事情で反対されるとは思ってなかったのだ。そして隣を歩く陽翔は一言も言葉を発しない。暑さのためかセミがまばらに鳴いている緑道を抜けても、電車に乗っても、最寄り駅についても、二人の間には湿気と気まずい空気が漂っていた。陽翔が日傘を持って百子の腰を抱き寄せていて、その温もりが救いといえば救いだが、百子の不安は落ち葉を竹箒で掃いたようにうず高く積もっていく。
「……えっと、東雲くん。その……家の事情って何なのか、聞いてもいい?」
強い日差しで暖められた空気を破り、百子はそっと口にする。陽翔は厳しい面持ちを崩さなかったが、観念したように彼女に告げた。
「……ああ。だがここでは話しづらいから、家に帰ってからにして欲しい。」
彼の表情が今度は哀愁混じりに変わってしまい、百子はそれ以上追求する気にはなれなかった。それでも話してくれると陽翔が表明したのは嬉しい。ひょっとしたら百子が陽翔に心を開いて本当の出来事を話したから、陽翔も渋々ながら話してくれるのかもしれないと、今になって思った。
(本音とか本当のことを言わなかったら……相手だって言えないもんね)
陽翔が日傘を畳むのを見て、百子はようやっと二人の住むマンションに帰ってきたのだと気づく。ドアを開けて中に入るや否や、陽翔にいきなり後ろから抱きすくめられて、百子は目を白黒させた。
「百子、すまん……本当は俺から色々説明しなきゃいけなかったのに、上手く言えるか不安で……結果的に百子に隠し事をしてしまった……」
百子は背中いっぱいに彼の体温を感じていたが、胸の下に回された腕が少しだけ震えているのに気づく。百子は陽翔の手に、そっと自分の手を添えた。
「ううん……いいの。まさか父があんなことを言うとは思わなかったけど、東雲くんだって別に隠そうとしてた訳じゃないでしょ? まあ何であんなに父が不安だったのかは流石に分からないけど。今日は私も東雲くんも予定入れてないから、ゆっくり話そう? それとも明日の方がいい? 話しにくいなら今日じゃなくてもいいと思うんだけど」
陽翔は百子に巻きつけていた腕を緩める。
「いや、今日に……全部話す。先延ばしにしたって意味がないし。それに……百子を不安にさせたままなのは嫌だからな」
「うん……ありがとう、東雲くん」
百子は彼の方を向き、唇に軽く口づけた。不意をつかれてキョトンとした陽翔に、着替えてくるとだけ伝え、部屋のドアを閉めてワンピースを脱ぎながら、家族の話しにくい事情というのは何だろうと考えていた。思いつくのは伝統ある家柄で、何かを代々継承していることくらいだろうか。
(考えても仕方ない。ちゃんと東雲くんの話を聞かなきゃ。せっかく話してくれるんだから)
百子はTシャツとキュロットに着替え、陽翔の待つリビングへと向かう。冷房の効いたリビングが百子を出迎えた。彼はネクタイを緩めてワイシャツのボタンを3つほど外しただけで、百子の実家の挨拶に行った時の服装のままでソファーに座って足をだらりと投げ出していた。
「東雲くん。その格好のままでしんどくならない? 暑くない?」
百子は台所で二人分の麦茶をグラスに入れ、それを運ぶ途中に声をかける。
「いや、冷房も効いてるし暑くない。それに……今は着替える気もしないし」
彼の緊張した声がしたので、百子まで緊張してしまってぎこちなくテーブルに麦茶を置く。
「ありがとう。すまんな」
陽翔は百子の用意した麦茶に口をつける。一気に飲み干すと少しだけ緊張が和らいだようで、ゆるく深く息を吐いた。
「上手く話せるか分からないが……話してもいいか?」
百子は緊張の面差しを崩さずに頷く。困惑気味に揺れる眼鏡の奥が気になったが、百子は陽翔の手をそっと握った。
「ありがとな、百子」
そして陽翔はぽつぽつと自分のことを話し始める。幼い頃からマナーや立ち居振る舞いを厳しく躾けられたこと、そのために小学生の頃は周囲から浮いていて孤立していたこと、私立中学に入るように言われて夜遅くまで塾通いをしていたこと、両親に情操教育の一環としてオペラやバレエ、クラシック鑑賞、そして絵画を見に海外の美術館に連れ回されたこと、そしてそんな特異な家の事情とそれに付随する悩みを分かち合える人がいなかったことなどを話した。
「……驚かないのか、百子」
ここまで話しても、百子の表情はさして変わらない。敢えて言うならその瞳が少し和らいだくらいだろうか。
「そんなに。何となくだけど、東雲くんは教養もマナーも身についてるから、親御さんが割としっかりお教えになったんだろうなって思ったよ。だって私も似たようなものだし」
百子は陽翔と大学の頃に絵画や旅行、それにクラシックなどの芸術の教養についてよく話したことを思い出す。それに、彼がご飯を食べに行った時にナイフとフォークの扱いに慣れていた所を見ている。それを見ていたら、何となくだが陽翔が幼少期に厳しい教育を受けていたことは分かるのだ。
「そうか……そうだな。百子と芸術の話をするのは楽しかった。そんな話をできる人間は例え私立出身でもそれほどいないからな」
百子はここで首をかしげた。このことを彼が隠したがってるとは到底思えなかったからだ。陽翔と自分が育った環境がほぼ同格なら結婚の時は懸念どころか安心材料にしかならない。そう考えていた百子だったが、彼が眉を下げて口を開く。
「それに……俺は……俺は社長の息子なんだ」
陽翔の固い声がリビングに溶けた。