Side 黒
チャイムのあとに、ドアが開く音がする。誰か入ってくるんじゃないかと怖くなるけど、そのあとに「北斗ー。戻ったよ」と京本の声がして安心する。
「…おかえり」
リビングに顔を見せた彼は、なぜか顔中に笑みを広げた。
「俺の家じゃないけどな。ただいま」
そして持っていたエコバッグからじゃがいもやらにんじんやら食材を出し、さっそく料理を始めるようだ。
「俺も…手伝うよ」
「いいよ、しんどかったら座ってて」
俺は首を振る。こんな俺のことをずっと気にかけてくれてる旧友の、何か助けになりたいといつも思っていた。甘えていられないと。
「いいんだよ。俺も食べるやつだからさ」
そう言って京本は譲らない。
渋々、俺はソファーに座り直してキッチンに立つ彼を眺めた。
腕まくりをして包丁を握る京本は、どこか料亭の板前のようで誇らしい。
やがてジュージューと食欲をそそられる音がしてきた。なぜだか、彼の料理ならいつもより多く食べられるんだ。
「…俺さ」
炒めていた鍋に水を注ぎ、音が静まったとき。俺はぽつりと口にする。
「うん」
「静岡、帰ろうと思うんだ。だからこれから電車に慣れようかなって」
働いていたころは電車通勤だったけど、休職してからは一切乗っていなかった。急に乗れば、たぶん今の俺だと耐えられないだろう。
「そっか。無理すんなよ」
あまりにも京本の感想はあっさりしていた。もっとここで頑張れとか言われるかなと思っていた。
それを見透かしたのか、木べらでかき混ぜていた手を止める。
「そっちで頑張れるなら俺は止めない。引き留める理由なんてないしな。寂しくなったら会いに行ってやるよ」
そして、変わらない優しい笑顔を見せた。
「あっ! 北斗、やっと笑った!」
俺は思わず自分の頬に手を当てる。心がふわっとなった感覚はあったけど、笑っていたなんて。
「うわやっべえ! ぐつぐつしてる」
京本が慌てて火を止めた。「ほら、できたよ」
カレーをレンジでチンしたご飯の上にかけ、お皿をローテーブルまで運んでくれた。
「うまそう」
「だろ?」
京本は得意げだ。ソファーに並んで座っていただきますをする。
「——ん。美味しい」
「おっ、やったぜ」
少しずつ口に運ぶ。熱くてスパイスも効いている。冷え切っていた身体の芯が、じわじわと温まっていく。
「ごちそうさまでした」
勢いよくかっこんでいた京本にちょっと遅れて食べ終える。「まだ材料余ってるから、できるときに作りな」
そう言って、京本は洗い物までしてくれる。
故郷に帰ってうつの症状が良くなったら、きちんと京本にお返しがしたい。まあ本人に伝えたら「んなこと気にすんな」なんて言われそうだけど。
一人で生きられないわけでもない、と俺は思っていた。うつ病がわかっても。
だけど、無理だった。俺を過剰なほど気にかけてくれる友人もいるし、その助けを必要としている。
京本がいなきゃ、今俺はきっとここにいない。
「んじゃ、そろそろ帰るわ。ちゃんと晩飯も食えよ」
まるで兄のような口調。玄関に向かう彼を追った。
「下まで送ってく」
京本は振り返って眉尻を下げる。「そんな格好で出たら寒いから。上着着てきな」
適当にハンガーにかかっていたパーカーを羽織り、つっかけを履く。外に出ると、冷たい風が吹き抜ける。
「寒…」
「ほーら言っただろ」
京本の身体に身を寄せ、アパートの階段を下りる。ふと見上げてみると、建物に切り取られた枠の中、澄んだ青空が絵画のようだった。
「大丈夫。春はもう、そこにあるよ」
終わり
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