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Side Black
たいが。大我さん。
俺は舌の上でその名前を転がすように口にする。
その響きとあの歌声は、俺の心の中にぽっかり空いていた穴に少しずつ染み込んでくる。
いつもの最寄り駅で、偶然見つけた彼。普段使うのに今まで会わなかったのは、たぶん駅の反対側だったからだ。
なんでもっと早くにあっちへ行かなかったんだろう、とちょっぴり後悔したり。
まだ春の気配は少ない、やや冷たい空気。
コートの襟に顔をうずめていると、右肩を誰かにたたかれた。
「北斗さん。ですよね?」
首を上げれば、待ちわびていた人がいた。昨日と同じジャケットを着ている。その手には、ステッカーがたくさん貼られた黒いギターケース。
「ほんとに来てくれたんですね。てっきり、忘れられてしまったかと…」
「ごめんなさい」と謝る大我さんは、少年のようだった。
「バイトを早めに切り上げてきたんですけど、ちょっと間に合わなくて…」
「あっすいません、ご予定あったのに」
「いや、歌を聴いてくれた人に『明日も来てください』なんて言われたら、そりゃ断れないでしょ」
と茶目っ気たっぷりに笑う。
「よかったら、あったかいところへ移動しませんか。あなたのためだけに歌いたい…っていうか」
首をかしげる俺を大我さんが連れて行ったのは、カラオケボックスだった。
「ここなら存分に聴けると思いますよ。…そんな大層な歌じゃないですけど」
「いや、あれが聴きたいんです。昨日の歌。なんて曲名なんですか?」
「実は…まだ決めてなくて。決めきれてない、っていうのが本音ですかね」
古びてところどころ破れかけたソファーに座り、彼はアコースティックギターを出す。俺はその隣に。ギターはきっと使い込んでいるんだろう、だいぶ年季が入っていた。
「もしあれだったら、もう一回聴いて名前つけてくれませんか?」
突然の申し出に、俺は驚いて手を振る。「いや、僕はただの通りすがりですし…」
「もう、俺にとっては通りすがりじゃないですよ」
「え?」
「歌を気に入ってくれた、大切な方です」
照れ笑いをこぼした。友達だって数少ない俺が、昨日出会ったばかりの人にそう思われるだなんて。
そしてギターの音色を確かめるように鳴らしたあと、自然とそこにメロディーが乗った。
やっぱりだ。俺は心の中で確信する。
この人の声は、あいつと似ている。
もう14年も会っていない親友と、どことなく雰囲気の近さを感じられた。
だから昨夜も立ち止まってしまい、声まで掛けてしまったんだ。あの声を、もう一度聴けたらと14年間ずっと思っているから。
せめて一度だけでも、またくだらない話をしたかった。
あんなにくだらない会話だって宝物だったことに、あのときの俺は気づいていなかった。
「……北斗さん? 大丈夫ですか」
気づけば曲は終わっていて、大我さんにハンカチを差し出されている。
「え…? あ、すいません」
目の奥が熱い。いつの間にか頬に流れていた涙を、受け取ったハンカチで拭いた。それは真っ白で、綺麗だった。
あいつと同じ性格なんだろうな。
「辛いことがあったら、泣く。それは当たり前ですよ。決して幼稚なことでもありませんし」
この人はずるいと、少しだけ思った。
見ず知らずの俺に優しくしてくれて、俺だけのために歌を歌ってくれて。
膨れ上がる一方だった愁いも晴らしてしまって。
「ありがとうございます。なんか、お礼のしようがないっていうか…」
「そんなのいいんです、何もしてないですから」
品のある柔和な笑みを浮かべた。
「…大我さんの声って、ちょっと友人と似てるとこがあって。なんか、またあいつと話せたような感覚で…。今ようやく、ほんとの『さよなら』を言えた気がします」
「それはよかった」
「……祈り」
「えっ?」
「タイトル。やっぱりこの曲は、『祈り』だと思います。大我さんの祈りが込められてる」
そう言うと、彼は満足そうにうなずいた。
「俺もそんな感じっていう気がしてて。じゃあ、この『祈り』、これからも歌っていきますね」
「また、聴きに来ていいですか?」
「もちろん。確約はできないけど、あそこで歌ってるから」
ギターをケースにしまう。もう帰ってしまうのかと俺は寂しくなったけど、一方の大我さんはソファーに座り直し、デンモクを操作し始めた。
「歌…うんですか?」
「だって部屋入っちゃったんだし、歌わないともったいないじゃん?」
いつしか口調がくだけている。
まあ成り行きでこうなっちゃったんだから、楽しむしかないか。
「ねぇ北斗さん。俺いつか、ここに曲が載るアーティストになりたいんだ」
「きっとなれますよ」
「そのときは、俺の曲歌ってくれる?」
「もちろんです。一番乗りで歌います」
「そっかぁ、嬉しいな」
あれから止まっていた時が、やっと今ゆっくりと動き出したようだった。
終わり