呪いの部屋の前の廊下で、貴弘は、のどかと八神が話しているのを聞いていた。
「すみません。
結局、ご迷惑おかけてしてしまって」
「まあ、隣に仕事が見つからなくて、今にも首くくりそうな奴がいるよりはいい。
つながってる家に住んでるのに、そういうの見過ごすのは職務怠慢な感じがするだろ」
いや、人が投げ込まれるのはいいのか……、と思いながら、貴弘は、
「本当にそちらの部屋を一部、間借りするのなら、家賃を下げよう」
と八神に言った。
「そっちの一万の家賃を俺も含めて三人で割るか」
と言うと、
「三千円か」
と八神が呟く。
……もはや、もらわなくてもいい気がしてきたぞ、と貴弘は思った。
万が一、此処が本当に社員寮になって、何人か引っ越してきて、また割ったら、家賃は小学生の小遣い程度になるだろう。
「じゃあ、保健所の検査が近くなったら、そんな感じでお願いします。
……でも、やっぱり申し訳ないですね」
と言うのどかに、八神は、
「いや、こっちの方が申し訳ない感じがするぞ。
家賃は三千円になるし、食事も安く作ってもらえるし。
朝食作ってもらえるっていいよな。
まるで奥さん居るみたいでさ」
と言って笑う。
その言葉に、貴弘は、聞いていた耳をぴくりと動かした。
八神はなにも思っていないようなのだが、こちらは気になる。
付き合ってないし、お互いのこともよく知らないし。
婚姻届を出すに至った記憶も消えてはいるが、一応、そいつは俺の妻だぞ、と思って。
そういえば、区役所で撮った写真、ふたり居るのに何故、一枚しかくれないんだと思ったが。
よく考えたら、普通は結婚したら、ひとつの家族だから一枚でいいんだよな、と今更ながらに気がついた。
つまり、俺たちは、まだ、なにも夫婦でないと言うことだ。
俺がのどかに手を出してないこと以前に、気持ちのうえでも、形でも。
そのとき、
「貴弘」
と横に居た猫耳神主が呼びかけてきた。
「人間も耳、動くんだな」
と感心したように言う。
なんの話かと思ったが、今、八神がのどかに、奥さんができたみたいだと言ったとき、自分の耳がピクリと動いたのを見ていたようだった。
「猫でもないのに」
と泰親が言うので、
「お前のその猫耳動くのか?
っていうか、お前、耳、四つあるぞ」
と言うと、泰親は猫耳の方をピコピコ前後に動かして見せながら、
「これは私の呪われてる部分だ。
呪った猫が此処に憑いているのかもな」
とその猫耳を指差す。
ずいぶんと可愛い呪われ方だな……。
「猫は表情筋が少ないから、耳やヒゲ、瞳孔なんかで感情を表してるんだ。
ちなみに、ちょっぴり外向きに倒れているこの状態は、リラックスを表している」
と耳を指差し、泰親は言うが。
いや、お前人間だから、表情筋あるだろうが……と貴弘は思っていた。
うっかりそんな猫耳談義をしている間に、のどかと八神はすでに部屋割りなどを決めているようだった。
しまった。
乗り遅れた。
っていうか、今、気づいたんだが、二人で八神の家のエリアに住んだり、此処を社員寮にしなくても。
自宅カフェはやめて、俺の家に住んで、此処を店舗にすればいいじゃないかって言えばよかったんじゃないか?
そんな今更なことに気づいたとき、八神が帰る素振りを見せた。
「じゃ、俺帰るわ。
また細かい話は今度つめよう、お隣……
そうか。
もうお隣じゃなくなるよな、一緒に住んだら。
えーと、のどか。
じゃあ、またな」
人の嫁を気安く名前で呼ぶなーっ、と思ったが、のどかを、
「成瀬」
と呼ばれても、どちらを呼んでいるのかわからない。
まあ、仕方ないか、とぐっと堪え、玄関まで、のどかとともに八神を見送った。
自分とのどかを残して、あっさり隣に帰っていく八神を見ながら、
……でもまあ、あいつは、別に、のどかに気があるとかじゃないのかな、と思う。
俺なら、八神をのどかの家に残して帰るのは嫌だが、と思ったとき、のどかが訊いてきた。
「じゃあ、お疲れ様でした、社長。
そういえば、なにしに来られたんでしたっけ?」
「用がなきゃ来ちゃいけないのか……」
とつい恨みがましく言ってしまう。
だが、相変わらずなのどかは、すでに話を切り替え、
「いやあ、それにしても、最初はどうなることかと思いましたけど。
うまく話まとまってよかったですよね」
と言い出す。
……どの辺がうまくまとまったんだ?
と思いながら、
「俺は今もどうなることかと思ってるよ」
と言うと、ははは、とのどかは笑っていた。
「でも、店だか社員寮だかわからない感じになっちゃったけど、刑事さんが居てくれると、なんだか安心ですよね」
イケメンなら、何者だろうが、なにも安心じゃないんだが……。
「まあ、とりあえずは、カフェとして開店させろよ。
社員寮は八神んちの方に併設するという形にするから」
と言ったあとで、貴弘は、一瞬、考え、
「のどか」
と呼びかけた。
はい? とのどかがこちらを見る。
「今からうちに来ないか?」
えっ、という顔をのどかはした。
「……俺も此処に来るのなら、うちの電化製品とか、こっち移してもいいし」
マンションはそのまま置いておくつもりだが、普段住まないのなら、家電は移動させてもいいから、とのどかには言った。
いや、単に、のどかを自宅に来させるためなのだが。
此処は邪魔が入りすぎる……と貴弘は思っていた。
こいつを好きかどうかの判断はまだできていないが。
判断する前に、次々現れるイケメンにハラハラして。
ぼうっとしていたら、誰かに持っていかれるっ、と思って焦ってしまう。
落ち着け、冷静になるんだ! と貴弘は自らに言い聞かせていた。
とりあえず、確保してから、好きかどうか考えてみよう。
「そんなことを考えてる時点で、冷静でないのでは……?」
と北村辺りが居たら、苦笑いして突っ込んできそうだったが、居なかったので、誰も止めてはくれなかった。
だが、のどかは、
「じゃあ、もう遅いですし。
今からでは、ご迷惑でしょうから、また今度」
と微笑み、言ってくる。
呑み会で、こんな風に、やんわり誘いを断られている友人を何人も見てきたが、まさか、自分がそんな憂き目にあうとはっ、と貴弘は思っていた。
しかも、戸籍上のこととはいえ、妻であるはずの女にっ。
今まで自分から女を誘ったことなどなかったので気づかなかったのだが、俺は実はモテない男なのだろうか?
働くばかりで、そんなこと意識したこともなかったがっ。
「じゃあ、社長、お気をつけて」
とまた、にっこり微笑まれ、仕方なく、貴弘は帰ることにする。
寂しくひとり帰る貴弘の視線の先に、玄関の灯りに照られた庭の隅のイカリソウが入った。
こういうのじゃなくて、妻が惚れる雑草とかないものだろうか……、と思いながら、貴弘は、のどかの家を後にした。
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