コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
細い……ようにみえたものの実際に触れてみると、それは意外と筋肉質な腕であった。
それもそうかと蓮は思う。
スーパーの早朝バイトでは、時間が限られたなか重い荷物を持ち運ぶこともあるという。
うーばーいーつの仕事も体力勝負だ。
抱きしめられた胸もまた然り。
胸板は厚くあたたかかった。
鼓動を打つ心臓の音まで心地よい。
あたたかいといえば──。
蓮は、ほぅと吐息を漏らした。
──小野くんの唇は、ほわほわしててあったかかったなぁ。
しっとり濡れて熱を持った梗一郎の唇の感触が、じわりと蘇る。
──あの唇が、俺の口にくっついたのは……。
二回、いや三回だったろうか。
分からなくなったのは、この数日ずっと同じ夢を見るからだ。
水浸しの家の中、梗一郎にキスをされ……。
「あひゃー--っ」
恥ずかしいぃぃと、両手で顔を覆う。
そんな蓮に、冷水を浴びせる声が。
「おい、蓮ちん、大丈夫かよ?」
「てか、頭は大丈夫なのかよ?」
「さっきから奇声がヤバすぎる」
例によってのモブ子らである。
矢継ぎ早なツッコミに蓮、ようやく我に返る。
「ご、ごめんよ」
「謝らなくていいが。アタシらかれこれ小一時間ジャガイモむいてるぞ」
「いつになったらカレーにありつけるやら。レトルトにすりゃよかった」
「さっさと手を動かせ……って、蓮ちん? 指をケガしてるじゃないか」
「えっ?」
モブ子らが凝視するのは蓮の左手だ。
見ると人差し指に一筋、赤い糸が這っているではないか。
さっき両手で顔を覆ったときに、うっかり包丁で切ってしまったのだろう。
「先生、血が!」
隣りから低い声が降ってきた。
繊細なガラスにでも触れるように、そっと蓮の手をとったのは梗一郎である。
優しい手つき、しかし強引に引き寄せられて指先を口に含まれた。
「はぁぁ、小野くん……」
傷を覆うように熱い舌がぬるりと移動し、彼の唇の肉が爪に触れる。
「小野くんの口が俺の指、濡れてて……ツバが。俺の血が……はぁぁぁ」
のけぞった腰を、とっさに腕を伸ばして支えてくれたのは、やはり梗一郎であった。
「はぁぁ」と身体をくねらせる三十歳講師に心配そうな表情を向ける。
「だ、大丈夫ですか? 先生」
「えっ?」
整った容貌が訝しげに歪むのを間近に見やり、蓮はスンっと真顔に戻った。
「君、頭は大丈夫ですかって言ったろう」
「……言ってませんよ」
呆れた口調で蓮の指を放すと、梗一郎は再び調理台に向き直った。
蓮とモブ子らが四苦八苦しながら剥いた小さなジャガイモを、さらに一口大に切る係なのだ。
力を入れすぎてプルプル震える包丁が、まな板に打ち付けられる音が不定期に響く。
モブ子らに勧め──しつこく……それはもう執拗に勧められて参加したキャンプである。
夕食はキャンプ飯の定番カレーライスだ。
グループごとに別れて調理をするのだが、蓮と梗一郎、モブ子らのグループは、全員が互いに不運としかいいようのないほど不器用の見本市であった。
引率の教務課スタッフが、助けに入るべきかどうかチラチラとこちらを窺っているのが分かる。
「蓮ちんはともかく。小野ちんよ、キミまで料理ができないとは思わなかったぞ」
「まったくだぞ。スパダリたるもの、料理が完璧にできてナンボなんだからな?」
「和食や洋食はもちろん、聞いたことのない料理までササッとできるものだろう」
──それがスパダリたるものだ!
「えっ、スパ……えっ、何? スパゲッティ? 何だ、こいつら。怖っ」
空腹で目が据わったモブ子らに詰め寄られ、梗一郎が嫌そうに顔をしかめる。
「スパゲッティはないだろうが」
「やれやれ、お約束な反応だな」
「もっとスパダリを勉強しろよ」
モブ子らが黙る気配はない。
「………………」
悟ったように目を細め、梗一郎はこれより無言を貫くつもりのようだ。
結局のところ、みすぼらしい具が入った薄いカレー汁にありつけたのは夜の九時もすぎたころであった。
夕方から調理を開始したので、当然のことながらほかのグループの姿はもうない。
野外に並べられたテーブルに、ちんまりと五人で腰をかけズルズルとカレーをすする。
しかもモブ子らときたら前日のコミケの疲労からか、食べながらうたたね寝をする始末。
彼女らを先にコテージへ帰し、蓮と梗一郎ふたりで皿や鍋を片付け終わったのは、それからさらに一時間ほどたってからのことであった。
ぐったりと疲れが残る夕食会だったが、これとて時が経てばかけがえのない思い出になるに違いない。