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第75話 ここに紡ぐ
夜が深まるころ、帝辛が来た。
扉を叩く音は、静かだった。
「起きているか」
「……はい」
帝辛が入ってくる。手に、茶の道具を持っていた。
侍従を連れていない。一人だった。
「体の具合はどうだ」
「だいぶ戻りました」
帝辛は縫季の答えを聞いて、小さく頷いた。卓の前に座り、道具を並べ始める。
縫季は起き上がり、帝辛の手元を見た。
動きに無駄がない。茶を淹れる所作が、体に染み込んでいる。
作法ではなく――習慣だ。
毎日続けてきた者の、静かな繰り返し。
湯が注がれる音が、部屋に満ちた。
◆
茶の香が広がる。
縫季は碗を受け取り、両手で包んだ。
温かい。
帝辛は自分の碗を持ち、外に目を向けた。
夜の庭。灯火がいくつか揺れている。
縫季もつられて、外を見た。
花壇があった。
夜の中でも分かる――整えられた土。雑草はない。だが完璧すぎない。誰かが毎日、少しずつ手を入れている痕跡。
縫季の胸が、波立った。
五つの世界線の記憶が、一瞬だけ走る。
荒れた花壇。踏み荒らされた土。花壇の前で泣きながら、狂楽香を砕いていた手。
ここでは――花が咲いている。
「……先王が作った花壇だ」
帝辛の声が、静かに落ちた。
「即位してから、私が続けている」
縫季は目を向けた。
帝辛は外を見たまま、茶を一口飲んだ。
「毎朝、少しだけ手を入れる」
「政務の前に。それだけは変えなかった」
「……なぜ」
縫季の問いは、自然に出た。
帝辛が少し考える。
「……明日も、同じ花が咲いている」
「それだけのことだ」
「だが――それだけのことが、難しい」
縫季の胸に、古い言葉が蘇った。
(今日、腹を満たした者が、明日も同じ顔で笑える国にしたい)
帝辛は続けた。
「鼎は、毎日手を入れなければ錆びる」
「形があっても、続けなければ崩れる」
「……だから、続ける」
縫季は花壇を見たまま、動けなかった。
(……同じだ)
(あの帝辛と――同じことを、言っている)
「……先王は、花を見るときだけ笑っていた」
帝辛の声が、少し柔らかくなった。
「政務では笑わなかった。宴でも笑わなかった」
「だが花壇の前では――自然に笑っていた」
「私はそれを、覚えている」
縫季は胸の光に触れた。
温もりが返る。
◆
「……一つ、聞いてもいいですか」
帝辛が縫季を見た。
「笑うことが――苦しかった時期は、ありましたか」
部屋に静けさが満ちた。
帝辛は碗を卓に置いた。
答えるまでに、少し間があった。
「……あった」
声は、静かだった。
「笑うたびに、何かが削れるような気がしていた」
「誰かに見せるための笑みだった」
「笑えば笑うほど――どこかが、空になっていく感じがした」
縫季は息を呑んだ。
(……知っている)
(五つの世界線で、何度も見た)
帝辛は続けた。
「今は?」
縫季が聞く前に、帝辛が自分で続けた。
「……今は、ない」
「なぜ?」
「分からぬ」
帝辛は外に目を向けた。
「……気づいたら、花の前で笑っていた」
「誰かに見せるためではなく」
「ただ――咲いているから、笑っていた」
縫季は何も言えなかった。
喉が詰まって、言葉が出ない。
帝辛が縫季を見た。
「……そなたは、なぜそれを聞いた」
縫季は少し俯いた。
「……大切な人が、笑うことが苦しそうでした」
「だから」
帝辛はしばらく縫季を見ていた。
それから静かに言った。
「……その人は、今は」
「……探しています」
「そうか」
帝辛は頷いた。それ以上は問わなかった。
◆
しばらく、二人は無言で茶を飲んだ。
中庭の灯火が揺れる。
縫季は花壇を見た。
夜の中に咲く花。小さく、だが確かに、そこにある。
胸の光が――震えた。
強く。温かく。返事をするように。
(……ここだ)
縫季の目が、熱くなった。
(花壇が、咲いている)(お前が、笑っている)(誰かに見せるためではなく)(ただ――咲いているから、笑っている)
縫季は胸の光に、そっと手を当てた。
光が、強く震えた。
「ありがとう」と言うように。
帝辛が立ち上がる。
「休め。体が戻ったら――また話そう」
扉へ歩く帝辛の背中を、縫季は見た。
「……陛下」
帝辛が振り返る。
縫季は、胸の光を抱きしめるように答えた。
「……花壇を、見せてもらえますか。明朝」
帝辛は一瞬だけ目を細め、それから静かに笑った。
「……余が手を入れるところを、見るか」
「はい」
「……物好きだな」
扉が閉まる。
残された縫季は、外の花壇を見た。
夜の庭に、灯火が揺れている。
胸の光が、温かく脈打っていた。
(……ここに、紡ぐ)
コメント
1件
第75話、読み終えました。帝辛が「続ける」と語る花壇のシーンがとても印象に残っています。「明日も同じ花が咲いている——それだけのことが難しい」って台詞、静かだけど重みがあって、胸に響きました。五つの記憶を持ちながら「ここ」で違う形を見つけた縫季の目線が、花壇と、自然に笑う帝辛を捉えた最後の場面、沁みました。