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※先ほどの夜の前の話。
放課後。
夕方の教室は、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。
机の間を抜ける足音だけが、虚しく響く。
遥は荷物をまとめて、無言で立ち上がった。
誰とも目を合わせない。
蓮司はもう先にどこかへ行っていた。
(……帰れば、また“あれ”がある)
ため息ひとつ、喉の奥で押し殺す。
義母の機嫌。兄たちの視線。
そして、夜に待っている“恋人ごっこ”の続き。
そのすべてを思い出さないように、顔を伏せたまま扉へ向かおうとしたとき──
「……遥」
その声に、足が止まった。
反射的に背中が強張る。
知ってる声。
今は、聞きたくない声。
振り返らずに、言葉だけを投げる。
「……なんだよ」
「ちょっと、顔……」
「今、忙しい」
遮るように言った。
冷たく、無機質な声。
でも、遥の指先はわずかに震えていた。
日下部は数歩、近づいてきた。
でも、手は出さなかった。
「……今日の、あれ。あんなふうにまでして、信じさせたかった?」
「何の話?」
遥はようやく振り返った。
けれど、その顔には表情がなかった。
目の奥だけが、酷く乾いていた。
「“あれ”って何? 恋人の会話くらい、するだろ。……おまえの前じゃ、したくなかったけどな」
「……嘘ついてまで、見せたかったのかよ」
日下部の声は静かだった。
怒っても、責めてもいない。
ただ、確かに届いてくる声だった。
だからこそ、遥はそれを潰したくなった。
「……うざ。何? 心配してます、みたいな顔して。何様」
「遥──」
「俺は、蓮司と付き合ってんだよ。……だから、もう構うな」
そう言った瞬間、自分で心臓に杭を打った気がした。
顔を上げたまま、何も見ていない。
日下部は、何か言いかけて──やめた。
「……わかった」
そう言って、少しだけ離れた。
でも、遥が廊下に出たその瞬間、背中がずっと見られている気がした。
(見るな。……見んなよ)
心のなかで呟いても、誰にも届かない。
それでも──
“信じようとしてる顔”が、あんなに苦しいのは、なんでだろう。
遥は、その問いの答えが出せないまま、夜の街に沈んでいった。