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夢を見た。壁に寄りかかり久しぶりに寝ていた。長いこと使っていない布団は押し入れの中でその時を待っている。しかし私は不老不死。なかなか疲れなかった。疲れを感じる前に回復してしまうからだ。便利なのかそうでないのか、私はいつも複雑な心境である。そんな私が、座ってはいるものの眠っていたなんて。珍しいこともあるものだと、少し驚く。しかし懐かしい夢を見た。あれは200年も前のことだ。少女と男の子たちが大熊に襲われているのを助けた日。ひとりの男の子は既に息絶えていた、血濡れた夜の森。その後村の大人たちは怒りに任せ森を燃やした。私を殺すために。ああ、あの光景は忘れないものの一つだ。私のために幾つもの命が消えてしまった。灰となり煙となって、私を呪った。それでいい。あの男の子を助けられなかったのは私の方なのだから。そしてあの少女は。私を最後まで見捨てなかった、少女は。忘れることのない。忘れるものか。少女は女性へと変わり、影として生き、そして私の最愛な人となった。名前は
「うわああああ!」
「!」
隣から女性の大きな叫び声が聞こえた。恐らく隣に住む小林桜の声だろう。何事かとベランダを出て様子を見た。声はしたものの大きな物音はしない。だがなんとなく嫌な予感がして私は急いで外の廊下へ向かった。すると、小林桜もちょうど部屋から飛び出たところだった。
「あっ」
私を見つけ気まずそうに頬を染める彼女。私は一呼吸を置き尋ねる。
「どうかしましたか」
彼女は一度瞳を左右に泳がせて言った。
「いえ…あの、虫が…」
ゴキブリが出たんです。続け様に言った言葉はなんとも小さなものだった。なんだ、虫か。私は緊張を解く。
「す、すみません。ご心配おかけして…」
あの。彼女は意を決したように私の目を見た。
「ゴキブリ…退治してくださいませんか…?」
困り眉の彼女は今にも泣きそうだった。そうか、虫が苦手なのか。私はかわいそうに思い、虫退治へと彼女の部屋へ入る。もちろん、初めての小林桜の部屋は黄色を基調とした綺麗に整えられた部屋だった。
「あそこ、あそこです。あのゴミ箱の裏です」
「わかりました。小林さんは外へ出ても構いませんよ。怖いでしょう?」
「え!いえ、そんな」
「ああ、退治が終わったらすぐ出ていきますから。直ぐに終わりますよ」
頭ひとつ分、小さい彼女は俯いているせいで余計に小さく見えた。彼女はこんなにも華奢だったか。毎朝顔を合わせているとはいえ、私は彼女のことを何も知らない。彼女も、私のことは何も知らない。それでいい。
「わ,私もいます!私も戦います!」
震えている彼女は適当な雑誌を取り丸めて、それをゴミ箱へ向けた。しかし涙目である。
「そんな無理しなくても」
「くくく玖賀さんだけにやってもらうのはやっぱり申し訳ないので…!」
よくわからない律儀さを彼女は語った。律儀というか、なんというか。礼儀正しいというのか。私は思わず微かに笑った。彼女は勇敢にも戦おうというのに、笑う私を見て呆気に取られていた。
「なら、後方はまかせてもらおうかな。ほら、ゴミ箱を動かすよ」
「はっはい!」
力が入る両手を突き出し雑誌を構える。しかし腰は引けている。そのアンバランスさに私はまた微かに笑う。
とうとうゴミ箱を動かした。花柄のバケツひとつ、分のゴミ箱だ。その背後には似つかわしくない黒い影が素早く動く。
「きゃあ!」
「待ちなさい」
驚く彼女を尻目に私はその物体へ言葉を発した。するとそれはピタリと動きを止め私を見つめる。小さな両面。黒い肌。長い触覚を左右に揺らしてそれは私を見る。そうするしかないのだ。この世の生き物は鬼を恐れている。天や地獄はこの世界を統べるものであり、その使者達は、この世の生き物達にとって圧倒的な力を持った恐ろしい怪物のように見えていた。それを知らないのは、感じられないのは大多数の人間だけだった。
「ほら外へ出なさい。もう入ってきてはいけないよ」
黒いそれ、ゴキブリは開けたベランダの窓の外へ静かに飛び去っていった。呆気に取られている彼女の顔を見て、とうとう笑いが止まらなくなった。
「え?え!どういうこと?!」
「あはは。落ち着いて、小林さん」
「だ、だって、え?!」
ベランダから出ていったゴキブリから、丸くなった目を私に向けた。
「玖賀さんすごい…!」
超能力ですか?!と勢いよく問いかけられた。違うよ、と静かに否定した。私は彼女のことを何も知らない。彼女も、私のことを何も知らない。だけど少しなら、知ってもらいたいと思った。思ってしまったのだ。人間として暮らしていた私にとっては大きな心境の変化だった。彼女なら、受け止めてくれると、直感があった。
「殺傷はしないタイプなんだ。だからいろんな生き物と会話できるようにしたんだよ」
「そんな簡単にできるんですか?!」
「まあ、頑張ればね」
未だ口を閉口している彼女はおもしろく、可愛らしいと思った。
思った?
「…」
「ど、どうしましたか?」
「…いやなんでもない。また何かあったら気軽に呼んでくださいね」
違う、違う。頭の中で反響する。否定する。私はもう誰も愛さないといった。人間を好きにならないといった。鬼と人は相入れないと知っている。これは、この感情はこどもや犬猫に向けられたものと同じだ。小林桜はただの隣人である。そう確かめた。
「今日はありがとうございました」
玄関先でペコリと頭を下げる彼女を制し、気にするなと首を振る。
「いえ。ではまた、明日」
「はっはい!明日」
明日。明日もきっと彼女に会うだろう。小さく手を振る彼女に会うのをどこか楽しみにしている私を、無視して部屋へと戻った。これが嫌な予感の正体だと気づかないまま。