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モディーハンナの演説から数日が過ぎ、しかし粛清は起きず、予言の日は近づいているが、ウィルカミドの街は落ち着いていて、寺院にもまだ僧侶はいる。
あれから大頭は寝込んでしまい、シグニカの歴史どころか、未だに満足に挨拶すらできずにいる。
ユカリとレモニカは町を流れる冷たい川の洗濯場より少し下流でユビスの長毛を洗うことにした。ベルニージュは手伝ってくれないが、代わりにあり合わせの魔術で冷たい川を少しだけ温めてくれた。洗濯女たちからは少し冷たい目で見られたが、邪魔にはならないと分かると洗濯ものを踏み洗う仕事に戻っていった。
誇りがどうの気高さがどうのとぶつくさ嘶くユビスをレモニカが宥める。水も恐ろしいのか、とユカリが尋ねると、そんな訳があるものか、とユビスは否定する。
普通の馬ならば藁などで擦るところだがユビスはそうもいかない。藁が肌まで届かず、長毛に絡めとられてしまうだけだ。
洗濯女たちの活力に満ちた労働歌を聞きながら、ユカリとレモニカはまず長毛が巻き込んだ様々なごみを手で取り払う。大仕事の間、ユビスは低地の様々な場所に出かけたらしいことが分かる。枯草や枝や小石、虫や鼠の死骸を丹念に取り除く。レモニカが時折悲鳴を上げる。
次に汚れた毛を石鹸で泡立てる。泡立たないが。それはほとんど気休めに近い。そして完全に汚れを落とす前に石鹸を使い切ってしまった。最後にベルニージュの湯で泡と汚れを洗い流して川を出る。その間ずっと、ここ数日でさらに数を増した冠鴎が鳴き喚いていた。
濡れた体で文句を垂れるユビスに目隠しをし、焚火のそばで温かい風に吹きつけてもらいながら、借りてきた刷毛で優しく梳る。ユカリたちが川から上がった後も、ベルニージュはもっと安定して川を温める方法に興味を持ったらしく、模索していた。
正直なところ、ユカリたちにはこれが正しい手入れなのか分からない。毛長馬の飼い方を調べようとしたが、それを知る者もそれを記した書籍も見つからずじまいだ。
「ネドマリアさんやドボルグさん、ジェスランさんはどうしてるんだろう?」とユカリは焚火にあたりながら何気なく呟く。
「ネドマリアさんはともかく、盗賊やジェスランの心配までしてるの?」とベルニージュが刺々しい声色で言う。
「心配というか何というか。大仕事の反省というか。結果的に魔導書を三つ、手に入れられたけど。沢山犠牲にしたわけだし」
「犠牲として一番大きいのは真珠剣リンガ・ミルでしょ」とベルニージュは温い川に手を浸しながら言った。「あれは魔導書だったかもしれない」
「ユカリさまを責めないでください」とレモニカが庇ってくれる。
ベルニージュが苦笑して言う。「別に責めたつもりはないよ。盗賊より魔導書の方が大切ってだけ」
「そもそもの発端はわたくしがチェスタにさらわれたこと、いえ、その前にシャリューレにさらわ……。とにかく不運の連鎖だったのです!」
「その前はユカリがさらわれたんだったね」とベルニージュはユカリに思い出させる。
「ああ。そうだった」ユカリはユビスにすがるようにうつむいた。「発端、私だった」
レモニカが慰めるようにユカリの背中をなでる。「その、お気になさらずユカリさま。わたくし、むしろシャリューレに仕返しができて、すっきりしたくらいですもの。扇を奪った時のシャリューレの顔といったら」
そう言ってレモニカはくすくすと笑う。ずいぶんと鬱憤がたまっていたらしい。
「ネドマリアさんだって大丈夫だよ」とベルニージュは楽天的に言う。「人を煙に巻くことに特化しているような迷いと惑いの魔法使いなんだからね。お姉さんの情報が手に入ったかどうかは気になるけどさ」
いやましに冠鴎が騒ぎ出し、ユカリは少しばかり苛立たし気に空を見上げ、身に備わった魔法の力を思い出したようにはっとして、【話しかける】。
「すみません! 何をそんなに騒いでいるんですか!?」
突然夜が訪れた。青空が黒く染め上げられ、星々が瞬いたとユカリが気づくと同時に再び昼が戻って来る。
「え? 何? 今の?」
ユカリは混乱し、助けを求めるようにベルニージュとレモニカの方を振り返るが、二人とも答えを持ち合わせてはいない。
「海嘯だ! 大海嘯だ!」と言ったのは冠鴎だ。
ユカリはすかさず魔法少女の煌びやかな杖を呼び出し、踏みつけにして空へ舞い上がる。冠鴎の高さまで上ると北の地平線が歪み、蠢いているのが見えた。その時点ですでに上陸し、いくつかの町々を呑み込んでいるのは間違いない。
「止まれ! フォーリオン!」ユカリは喉が張り裂けんばかりに叫ぶ。「魔法の誓いを違える気か!?」
海嘯が唸るように老いたる者の過ぎ去りし時を悔やむように答える。「吾輩の意志ではない! 力によって我が身も魂も戒められておるのだ。許せぬ。千古の昔より数多の戦船を呑み込んできた吾輩に、海神ルピーヴァの第一の眷属たる吾輩にこのような屈辱を強いようとは」
本当にフォーリオンの海自身にはどうにもならない様子だ。
ユカリは地上へ戻り、海嘯の様子をベルニージュとレモニカに聞かせる。
「魔法の誓いを破ったのならフォーリオンの意志でユカリに逆らえないはず」とベルニージュは確信を持って言う。「つまり第三者に強制されているってのは本当だと思う」
ユカリは慌てふためく。「どうしよう!? 避難誘導? でもどこに!?」
レモニカは幾分落ち着いて状況を整理する。「高地になんて間に合いませんわね。出来るだけ高い建物へ逃げるようにウィルカミドの街の皆さんにお伝えしましょう」
「いや、たぶんこの街で一番高い建物でも水の下に沈むと思う」とユカリはウィルカミドの街の草屋根を見上げながら伝える。
「街の人々は例の秘密の礼拝堂の地下墓地に誘導しよう」とベルニージュは言った。
「地下だよ? 水が流れ込むよ」と言うユカリに、ベルニージュは首を横に振って否定する。
「考えがある。賭けだけど。屋根の上よりは助かる可能性が高いと思う。信じて。理由はその内説明するから。ユカリとレモニカは空から呼びかけつつフォーリオンに命じた何者かを探して。私はユビスに乗って地上で避難誘導する」
レモニカは不安そうにベルニージュを見つめて言う。「でもここからではまだ押し寄せる海が見えませんわ。話を信じていただけないのではありませんか?」
「救済機構の粛清ってことにしよう」とベルニージュはユビスに跨って言った。「尼僧の姿をしたレモニカが言えば海嘯よりは信憑性があると思う。北から僧兵の大軍が来る、盗賊と無関係な者は隠れるようにって言いふらして」
ベルニージュがユビスを駆り、ユカリはレモニカを抱えて再び空へ舞い上がる。
ユカリとレモニカは粛清が始まったと人々におどろおどろしげに告げつつ、救済機構の篝火台や家屋の屋根を見渡す。フォーリオンの海に命令した者は見当たらない。
焦りにも恐れにも関心を寄せず、無慈悲な海嘯が無力な街に迫りくる。人々の避難はおおむね上手くいっているようだ。あの秘密の地下墓地はかなり深くまで広がっている。街の人々を救うには十分だが、肝心の水をベルニージュはどうするつもりなのだろう。魔法で蓋でもするのだろうか。
ユカリは目を皿のようにして怪しい人間を探すが、逃げ惑っている者しかいない。ユカリは焦りつつも何者かの居所を推し量る。しかし考えてみれば、あの規模の海嘯を呼び出せるのだ。シグニカ北部のどこにいても可能なのではないだろうか。なぜこの街にいるというのだ。ユカリはベルニージュの意図を知る。賭けに勝つ可能性を低く見積もっていたということだ。
「ユカリさま。もう間に合いませんわ」とレモニカが絞り出すような声で言う。
黒々とした海の壁が何もかもを呑み込んで、草原を押し寄せてくる。ユカリはさらに上昇し、海嘯から逃れた。逃げ遅れた冠鴎が海に飲み込まれ、ウィルカミドの街が轟音と共に水の下に消え失せた。
ユカリはさらに上昇し、東西南を高地に囲まれたガミルトン行政区全体を見渡す。北から押し寄せた黒い海が南へと、青々とした草原を塗り潰していく。そしてついには西高地へ到達し、メルコー市も聖ギルデモ市も全て海に飲み込まれてしまった。
ユカリとレモニカは言葉を失ったまま下降する。大地を侵略したフォーリオンの海は嫌に静かで、そして透き通っていた。土砂や瓦礫を巻き込んで濁っているはずが、瑞々しい草原が海流に棚引く様子が見て取れる。普通の海嘯ではない。魔法によって引き起こされた海嘯なのだと確信する。
ユカリはフォーリオンに話しかける気にはなれなかった。
「あれはいったい」と言ってレモニカが息を呑む。
ユカリもすぐに気づく。ユカリが前に訪れた浄火の礼拝堂からウィルカミドの街にかけて巨大な泡が形成されているように見える。しかしただの丸い泡ではない。とても複雑な形を成している。大きな円屋根、立ち並ぶ記念碑、その泡の形は救済機構の寺院にも引けを取らない威容の、古代の神殿のようだ。
これはベルニージュの魔術なのだろうか。ベルニージュは賭けに勝ったのだろうか。