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第310話 名前を返す
【現実世界・雲賀家】
主鍵から伸びた細い光は、消えなかった。
ハレルは胸元のカメラ型ネックレスへ手を添えたまま、その先を見つめている。
もちろん部屋の壁の向こうに何かが見えるわけではない。
それでも確かに
遠くにいる誰かと繋がっている。
そんな感覚があった。
「引っ張らないで」
サキが言った。
ハレルが横を見る。
「分かってる」
「たぶん、まだ迷ってるから」
匠も主鍵の反応を見ていた。
「こちらから固定するな」
「うん」
「今の主鍵は、向こうから来た反応に道だけ返している」
ハレルは少し驚く。
「俺が繋いだんじゃない?」
「違う」
匠が答える。
「先に向こうが触れた」
その言葉で
ハレルは胸の奥にあった僅かな緊張をほどいた。
自分が呼び出したのではない。
向こうがこちらを探した。
なら、今度こそ
その人に選んでもらう。
「でも」
サキが小さく言った。
「このままだと話せないよね」
主鍵は光っている。
反応もある。
けれど声はない。
ハレルが考えているとパソコンが鳴った。
ノノからの通信。
『ハレル、聞こえる?』
「聞こえる」
『こっちでも主鍵の反応を確認したよ』
「白いコア?」
少し間。
『うん』
ノノは慎重に答えた。
『まだ完全に同一だって私から断定する言い方はしないけど、榊原梓さんの反応と考えていいくらいには一致してる』
ハレルが頷く。
「声を繋げられる?」
『そのままは難しい。でも』
画面へ簡単な図が出る。
『主鍵を中継点にして、現実側から一つの情報を送ることはできると思う』
「一つ?」
『短い音声。長くても数秒』
サキがすぐに言った。
「名前?」
ハレルも同じことを考えた。
ノノは答える。
『私も、それが一番いいと思う』
匠が画面を見る。
「誰が呼ぶ」
その問いに
部屋が静かになった。
ハレルではない。
#探偵
橘靖竜
6,601
4,465
にゃいにゃい
74
サキでもない。
匠でもない。
榊原梓が
最後まで覚えていた人。
白色コアになっても
最初に声へしようとした名前。
『……ゆ……』
ハレルが言った。
「ユナさんだ」
◆ ◆ ◆
【一ノ瀬家】
連絡を受けたユナは
しばらく何も言えなかった。
パソコンの画面。
ノノから送られてきた説明。
主鍵。
白色コア。
短い音声なら届くかもしれない。
リオが隣で聞く。
「姉さん、できる?」
ユナは机の上に置かれた集合写真を見た。
自分の隣。
榊原梓。
名前が戻ってから写真の中の顔も
以前よりずっとはっきり見えるようになった気がする。
実際に画像が変わったわけではない。
自分の中でこの人が誰だったのか
戻ってきただけだ。
「何て言えばいいんだろ」
ユナが呟く。
リオは答えなかった。
簡単に。
「帰ってきて」とは言えない。
身体がどこにあるのかも分からない。
戻れる方法が完成しているわけでもない。
それに。
昨日。
白峰の告白を聞いた。
戻す側が勝手に行き先を決めてはいけない。
「名前だけでいいんじゃない」
リオが言った。
ユナが見る。
「名前だけ?」
「姉さんが思い出した名前を、先輩に返す」
「……返す」
「そこから先は、本人が決めればいい」
ユナは写真を見る。
そしてゆっくり頷いた。
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/深部】
白色コアから伸びた線が
主鍵の反応へ触れている。
Cの声が響く。
『現実側から音声情報の送信要求』
カシウスが見る。
「誰だ」
『送信者情報を確認』
一拍。
『一ノ瀬ユナ』
白色コアがすぐに反応した。
光が強くなる。
白峰律の顔も変わる。
「ユナさん……」
カシウスは白色コアへ視線を戻した。
「接続しろ」
白峰がすぐに言う。
「待ってください」
カシウスが見る。
「また待つのか」
「本人が受け取れる状態か確認する」
「名前を呼ぶだけだ」
「だからです」
白峰は静かに言った。
「名前は、人を固定する」
榊原梓。
その名前で白色コアの反応は強くなった。
同時に名前というものが人間をどれだけ強く縛るのか
白峰自身が知っている。
「本人が拒否するなら、入れない」
カシウスが僅かに笑う。
「名前まで選ばせるのか」
「当然です」
「自分の名前だぞ」
白峰は少しだけ間を置いた。
「自分の名前だからこそです」
Cが反応を拾う。
『白色コア側に受信反応』
『拒絶信号なし』
『接続可能』
白峰はそれでも
何も命じなかった。
白色コアを見る。
そして小さく言う。
「聞きたくなければ、閉じてください」
光が揺れる。
消えない。
細い線も。
そのまま残っている。
白峰はCへ言った。
「送ってください」
◆ ◆ ◆
【現実世界・一ノ瀬家】
ユナの前に録音開始の表示。
《最大送信時間・5秒》
たった五秒。
ユナはマイクの前で
一度、息を吸った。
言いたいことはたくさんある。
どうして何も言ってくれなかったの。
ずっと探せなくてごめんなさい。
思い出すのが遅くなってごめんなさい。
戻ってきてほしい。
会いたい。
全部。
五秒では足りない。
でも今は
それでいい。
ユナは、録音ボタンを押した。
「先輩」
一度。
止まる。
「榊原梓さん」
声が僅かに震える。
「ユナです」
そこで時間が終わった。
送信。
ユナは画面から手を離した。
リオが隣で
何も言わずに待つ。
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/深部】
音声が届いた。
『先輩』
白色コアが大きく揺れる。
『榊原梓さん』
光が。
一気に膨らんだ。
白峰が息を止める。
カシウスも。
Cも。
その反応を観測している。
そして。
最後。
『ユナです』
白色コアの奥で。
何かが。
弾けた。
◆ ◆ ◆
暗い場所。
ずっと
名前がなかった。
自分が誰なのか。
分からなくなっていた。
声はあった気がする。
笑ったことも。
誰かへコードを教えたことも。
白い部屋も。
男の声も。
怖かったことも。
戻れると。
言われたことも。
全部。
遠い。
誰かに。
消されたのかもしれない。
時間の中で。
自分で忘れたのかもしれない。
もう。
区別もつかない。
けれど。
声。
『ユナです』
その声だけは。
分かった。
ユナ。
誰。
知っている。
後輩。
よく変数の位置を一つずらす。
集中すると周りが見えなくなる。
コードを褒めると。
すぐ顔に出る。
飲み物を机の右側に置く癖がある。
思い出す。
そして。
その前に。
呼ばれた。
『榊原梓さん』
名前。
榊原。
梓。
それが。
自分。
――なのか。
光の中で。
何かが迷う。
名前を与えられる。
その感覚を。
怖いと感じた。
また誰かに決められる。
そんな気がした。
だが違う。
この名前は。
今。
新しく付けられたものではない。
誰かの都合で。
作られたものでもない。
昔。
自分が。
その名前で呼ばれ。
その名前で返事をし。
その名前で。
生きていた。
それでも。
受け取るかどうかは。
自分で決めたい。
白い光の奥で。
榊原梓は。
初めて。
自分へ問いかけた。
――私は。
誰。
答えはすぐには出なかった。
だから。
もう一つ。
聞く。
――私は。
その名前を。
まだ。
私の名前だと思う?
長い沈黙。
そして。
奥に残っていた。
小さな感覚。
声。
笑顔。
仕事。
ユナ。
白峰。
恐怖。
怒り。
帰りたいと思ったこと。
全部。
消えてはいない。
好きな記憶だけではない。
嫌な記憶も。
奪われた時間も。
自分のものだった。
なら。
名前だけを。
そこから切り離す必要もない。
白い光が。
静かに。
答えた。
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/深部】
Cの表示が。
一斉に変わった。
《名称反応・完全一致》
《自己認識反応・上昇》
《外部入力依存――低下》
《自発的名称固定反応》
白峰の目が開く。
「自発……」
カシウスが表示を見る。
「外から固定したんじゃない?」
Cが答える。
『外部音声を契機としています』
『ただし、名称固定処理は対象内部から発生しています』
白峰が白色コアを見る。
外から
榊原梓と書き込んだのではない。
ユナが
名前を届けた。
そして最後に。
それを自分の名前として受け取ったのは。
本人。
白峰の顔に、何とも言えない表情が浮かぶ。
喜び。
安堵。
そして。
痛み。
「……そうですか」
それだけ言った。
カシウスが聞く。
「満足か」
白峰は首を振った。
「いいえ」
「名前は戻った」
「だからといって、私がしたことが消えるわけじゃない」
「なら何が変わった」
白峰は。
白い光を見る。
「私が返したんじゃなかった」
カシウスの目が細くなる。
「何?」
「名前を返したのは、ユナさんです」
少し間。
「そして受け取ったのは、梓さん自身だ」
カシウスは何も言わない。
白峰は続ける。
「私は、その間で」
自嘲するように僅かに笑った。
「何もしないことしかできなかった」
「それを成長と呼ぶつもりか」
「いいえ」
白峰は答える。
「たぶん」
白色コアを見る。
「最初から、それでよかったんです」
◆ ◆ ◆
白色コアが。
また。
音を作り始めた。
以前より明確。
Cが反応を拾う。
『音声形成』
白峰が一歩動きかける。
だが止まる。
今度は待った。
白い光から。
小さな声。
『……ユナ』
現実側。
主鍵が強く反応する。
そして。
もう一つ。
『……私……』
途切れる。
白峰は呼吸さえ止めるように
聞いた。
『榊原……』
ノイズ。
それでも。
続く。
『梓』
自分の名前。
誰かに呼ばれたのではなく。
自分自身で。
言った。
Cの表示。
《自己申告名称》
《榊原 梓》
カシウスの表情が僅かに変わった。
白峰は何も言えなかった。
長い間。
実験番号。
被験体。
白色コア。
名前のない存在として扱われてきた女性が。
ようやく。
自分の口で。
自分を名乗った。
◆ ◆ ◆
【現実世界・雲賀家】
主鍵の光が。
一度。
大きく脈打った。
同時にパソコンへ
ごく短い音声が届く。
ノイズ。
その奥。
女性の声。
『……私……榊原……梓』
サキが目を見開いた。
ハレルも何も言えない。
匠は少し離れた場所で
静かに目を閉じた。
サキが小さく笑った。
涙が少しだけ浮かんでいる。
「名前、戻ったね」
ハレルは胸の主鍵を見る。
「うん」
でも、主鍵はまだ光っている。
繋がりは消えていない。
ハレルが言う。
「ここからだ」
サキが見る。
「何が?」
「梓さんがどこへ行きたいのか」
名前を取り戻した。
だから次は。
その名前の持ち主自身が行き先を決める。
元の身体へ戻りたいのか。
ユナのいる現実へ行きたいのか。
今いる場所から。別の道を選ぶのか。
それはまだ
誰にも分からない。
ハレルは主鍵へ手を添える。
今度は引っ張らない。
ただ。
道を残す。
◆ ◆ ◆
【一ノ瀬家】
同じ音声がユナにも届いた。
『……私……榊原……梓』
ユナの目から
涙が落ちた。
リオが横から画面を見る。
ユナは口元を押さえたまま。
何度も頷く。
「……はい」
誰にも聞かれていないのに
答えた。
「先輩」
写真の中。
梓は
笑っている。
ユナも
涙を拭かずに
少しだけ笑った。
「おかえりなさい」
そこで、一度
止まる。
昨日までなら
その言葉だけで終わっていたかもしれない。
けれどユナはすぐに言い直した。
「……じゃないですね」
リオが見る。
ユナは写真へ向かって
静かに言った。
「帰りたかったら」
少し笑う。
「待ってます」
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/深部】
その言葉も微かな反応として
白色コアへ届いた。
帰ってきて。
ではない。
帰りたかったら。
榊原梓の光が柔らかく揺れた。
白峰はそれを見ていた。
カシウスが聞く。
「身体へ戻すのか」
白峰はすぐには答えない。
やがて。
「分かりません」と言った。
「またそれか」
「ええ」
白峰は今度は迷わなかった。
「本人に聞いていませんから」
「身体は彼女のものだ」
「だから戻りたいとは限らない」
「戻らない人間がいると思うのか」
「いるでしょう」
白峰は答える。
「世界を越えて」
「別の場所で生きて」
「何年も経って」
「それでも昔の身体へ戻ることだけが正しいとは」
白色コアを見る。
「もう、私には言えません」
カシウスは白峰を見ていた。
二人の間に
以前とははっきり違うものが生まれていた。
同じ喪失から始まった。
だが。
今。
見ている方向は。
もう同じではない。
カシウスは。
世界そのものを正しい形へ直そうとしている。
白峰は。
ようやく一人の人間の答えを待とうとしている。
その違いは。
小さく見えて。
決定的だった。
◆ ◆ ◆
白色コア。
いや。
榊原梓の光が
ゆっくり動く。
主鍵へ伸びていた線。
その一本とは別にもう一本
細い線が生まれた。
Cが反応を拾う。
『新規経路形成』
白峰が見る。
「どこへ」
『不明』
カシウスの目が鋭くなる。
「追え」
『座標情報不足』
線は
深部のさらに外側へ。
これまで
誰も表示していなかった方向へ伸びていく。
白峰は止めなかった。
榊原梓が何を探しているのか
まだ分からない。
身体か。
ユナか。
現実世界か。
それとも。
自分が失った時間そのものか。
分からない。
だから待つ。
榊原梓。
その名前だけを。
もう奪わずに。
白い光は今度こそ。
誰かに決められた場所ではなく。
自分で選んだ方へ進み始めていた。
第二十章 書き換えられた者たち編ーーー了
コメント
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うわぁ……第310話、読み終わりました。 梓さんが自分の口で「榊原梓」って名乗った瞬間、もう涙が止まらなかったです。ずっと名前もなくて、誰かに決められてた存在が、自分で自分の名前を選んで口にする——その重みがすごく伝わってきました。 ユナさんの「帰りたかったら待ってます」も優しすぎる……「おかえりなさい」から言い直すところ、ちゃんと梓さんの意志を尊重してるんだなって。 白峰が「何もしないことしかできなかった」って言うのも、彼なりの成長だと思います。無理に戻そうとしなくなった。 次、梓さんがどこに行くのか——まだ道は続くんですね。引き続き読ませていただきます🤍