テラーノベル
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彼がこの部屋に住み始めてから一か月ほどが過ぎた。 相変わらず部屋は殺風景だった。
ちゃぶ台と冷蔵庫、ノートパソコン。
小さな本棚が増えたけど、肝心の本はまだ並んでいない。
引っ越してきた時に持ち込んだ荷物は段ボール箱が三箱だけ。
ただ、その中のひとつ──
部屋の隅に置かれた段ボール箱だけは、今もそのままだった。
何となく気になっていた。
必要な物が入っているなら、とっくに片付いているはずだ。
なのに彼は一度も触ろうとしなかった。
ある夜、その箱を開けた。
原稿を書き終えたらしい彼が立ち上がる。
箱の中から取り出したのは、小さな木製のオルゴールだった。
彼は静かにねじを巻く。
優しい音色が流れ始めた。
どこかで聴いたことがある懐かしい曲だった。
彼は目を閉じる。
少し笑う。
それから泣く。
「なんなのよ、それ」
呆れた。
「オルゴールで泣く二十八歳って重いんだけど」
もちろん聞こえない。
だから好き勝手言える。
それと彼の年齢はいまだ分かっていない。
だから、とりあえず二十八歳にしている。
ふわりと近付き、オルゴールを覗き込んだ。
蓋の内側に文字が刻まれている。
From Kasumi, To Shogo
「へえ」
これくらいの英語なら私でも分かる。
贈り主は女の人らしい。
彼はしばらく音色を聞いたあと、小さな引き出しを開けた。
中から写真を取り出す。
初めて見る写真だった。
若い女性。
肩にかかる髪。
柔らかな笑顔。
その隣には今より少し若い彼が立っていた。
二人とも自然に笑っている。
「元カノ?」
写真を覗き込みながらつぶやく。
「振られたとか?」
少し考える。
「でしょうね」
ふざけ半分。
からかい半分。
その夜はそれで終わった。
次の夜も、彼はオルゴールを取り出していた。
流れてくる音色は昨日と同じだ。
ぼんやりと天井を眺めていた。
「ごめん……」
視線が向く。
「ごめんな、架純」
静かな声だった。
「──俺のせいで」
それ以上は続かなかった。
彼は俯き、写真を握り締めていた。
なんだろう。
見ていると少し居心地が悪かった。
なぜだか分からない。
都築七美
360
#初心者だからつまんないかも....
海夏
33
浪霧(らむ)
213
ピデピー
1,156
その場から離れたくなった。
振られたとか。
失恋とか。
そんな話じゃない気がした。
次の日だった。
彼が花束を抱えて戻ってきた。
白い花だった。
部屋のテーブルに置く。
珍しい。
花を飾る趣味なんてなさそうなのに。
ぼんやり見ているとチャイムが鳴った。
やってきたのはハルさんだった。
「あら、買ってきたんだね」
「はい」
「はい、線香とろうそく」
「それと──私からも」
「ありがとうございます」
彼が受け取る。
花束。
線香。
ろうそく。
しばらく見ていて、ようやく気付いた。
あ、これ──
ハルさんが尋ねる。
「何年前?」
「五年前です」
彼は答えた。
「交通事故で亡くなってから」
固まった。
ハルさんも少し目を丸くした。
「そうだったのかい……」
「ええ」
彼は苦く笑う。
「今日、お願いに伺った時に少し話しただけですから」
ハルさんはゆっくり頷いた。
「婚約者さんだったんだね」
「はい」
しばらく沈黙が落ちた。
「それは辛かったね」
ハルさんが静かに言う。
彼は少し視線を落とした。
「はい」
それだけだった。
ハルさんもそれ以上は聞かなかった。
帰り際、いつも通り明るく手を振る。
「じゃあね」
「風邪ひくんじゃないよ」
「気を付けます」
ドアが閉まる。
静かな部屋。
花束の前で彼が線香を立てる。
何も言えなかった。
元カノ。
振られた。
面倒くさい男。
さっきまで思っていたことを思い出す。
なんだか居心地が悪かった。
目を逸らす。
そんな必要はないのに。
でも少しすると、また見てしまう。
彼は静かに手を合わせていた。
翌週。
締め切りが終わったらしい彼は珍しく酒を飲んでいた。
机の上には缶ビール。
気付けばそのまま寝落ちしている。
隣には一冊の大学ノート。
開いたままになっていた。
見ちゃ駄目だとは思う。思うのだが気になってしまう。
ふと視線が向く。
開かれたページの日付は五年前だった。
『黒瀬町で取材』
『白い女の目撃談』
『結局誰も見ていない』
『架純にまた笑われた』
少しだけ口元が緩む。
さらに下には別の日の日記。
『黒瀬町二日目』
『今日は早く終わらせる』
『七時に架純と待ち合わせ』
そこまで読んでしまった。
胸の奥が少しざわつく。
先が気になった。
駄目だと思う。
でも気になった。
もう少しだけ。
あと少しだけ。
手を伸ばすような気持ちで力を込める。
紙がかすかに揺れた。
ぺらり。
一枚だけめくれる。
それだけで疲れた。
ふらつきながらページを見る。
『電話に気付かなかった』
『着信』
『折り返そうと思った』
『あと十分』
『あと十分早ければ』
その下には、
『事故』
『黒瀬町』
『救急車』
『ひき逃げ』
言葉だけが並んでいた。
まるで文章を書くことすらできなくなったみたいだった。
それ以上は無理だった。
紙はぴくりとも動かない。
力を込めても何も起きない。
諦めてノートから離れかけた、その時だった。
寝返りを打った彼の腕がノートに当たる。
ぱさり、とページがめくれた。
後ろの方の日付が目に入る。
数か月後の日付だった。
『犯人は逃げた』
『まだ見つからない』
『進展なし』
『また進展なし』
強く押し付けられた文字が紙をへこませている。
さらにその先のページには、
『心霊特集の連載を引き受けた』
『幽霊なんか信じていない』
『でも』
『もし本当にいるなら』
そこで文章は終わっていた。
しばらくそのページを見つめる。
続きを書かなかったのか。
書けなかったのか。
分からない。
でも目を離せなかった。
静かにノートから離れる。
胸の奥が少し苦しかった。
眠っている彼を見る。
穏やかな顔だった。
目を逸らす。
この人は何を考えているんだろう。
架純という人はどんな人だったんだろう。
気になった。
今までよりずっと。
架純という人のことも。
彼のことも。
自分でも少し驚くくらいに。
コメント
1件
読み終わりました……第7話、すごく深い回でしたね。最初は「元カノでしょ」なんて軽く思っていたけど、オルゴールと写真、そして「交通事故で亡くなってから」という言葉で、全部の意味が変わってしまった。あの日記の「あと十分」という言葉が、本当に重くて苦しかったです。彼が幽霊特集を引き受けた意味も、今になってじわじわと響いてきます。主人公が「自分でも少し驚くくらいに」彼のことを知りたくなった気持ち、すごく分かります。