「別れようか、俺たち」
大好きでたまらない声が紡ぐ、この世で最も残酷な言葉。何となくこうなることは察していた。それでも溢れる涙を止めることはできず、俺は嗚咽を必死にこらえながらその場にしゃがみこんだ。
「やだ。1年くらい待てるよ、俺。その先もシュンがドイツで研究したいっていうなら俺もドイツ行くもん、ドイツで一緒に生活するもん」
何言ってんだよ、とシュンが優しく笑いながら俺の肩を抱く。
「涼架には涼架のやりたいことがあって、それを俺のためには曲げてほしくないよ。それにきっと曲げられないよ、涼架、自分の本当に好きなことにはまっすぐだろ。そばで見てきたから分かるんだ。音楽が好きで、子供が好きで、いい先生になるよ。ちゃんと叶えたい夢があるなら、一時の感情に流されちゃいけない。いつか後悔してしまう日がきっとくる。現実的に考えなきゃいけない」
最後のほうは、シュンは自分にも言い聞かせているのだろうと思った。そう。一時の感情。きっとシュンの言っていることは正しい。正しすぎるくらいに。だからたぶん俺はそれを素直に受け入れることはできないのだ。現実的でなくても、いつか後悔するかもしれなくても、俺は君と一緒が良かったのに。それでも、それを許すことのできない正しい君。もう分かっている。今の俺たちに選択肢なんて残されていないってこと。
「……好きだよ」
何を言ったら君の気持ちを引き留められるかなんて、もうとっくに手札なんてなくなっていた。いや、多分もとから無かったのかもしれない。
「涼架、顔上げて」
やだ、と俺は俯いたまま首を振る。だっていま、涙でぐちゃぐちゃで絶対にひどい顔をしている。そんな顔を見せたくなかった。でも、もう一度名前を呼ばれて、しぶしぶ顔をあげた。
「ふ、ひどい顔」
「も~!だからやだって言ったのに!」
思わずというように吹き出した彼に、非難の声をあげる俺。
「ごめんごめん……ねぇ涼架、俺も好きだよ、涼架のこと。ちゃんと好きだったし、これからも好きだ。だからこの先、もしまた俺たちが一緒に過ごせるような機会が訪れたら……その時はまた俺に伝えさせてほしい」
「どんなこともその確率はゼロではないからって?」
うん、と言ってシュンは笑う。俺もつられるように笑った。
「やだよ、僕はきっとすぐに素敵な恋人できちゃうもんね~。その時に後悔したらいいよ、あの時にたとえ後悔することになってでもあの手を離さなきゃよかったなって」
おどけたように言って笑ってみせる。シュンは切なそうな光をその瞳に宿して笑う。ごめんね、俺は君が思うよりも優しい人間じゃないんだ。
こうして俺たちは友人に戻った。いや、戻ったという言い方は正しくないだろう。友人関係である期間の短かったカップルの多くが、別れた後に接し方に戸惑って疎遠になるように、俺たちも自然とその連絡頻度は全く無いに等しくなり、二人で会うこともなくなった。
3月にシュンが日本を発つ日、バンドメンバーみんなで見送りに行こうと話していたけれど、タイミング悪く俺は季節外れのインフルエンザに罹った。前の日の晩から高熱に苦しまされ、当日目を覚ましたらもう彼の乗る飛行機は日本を離れた後だった。呆気ないな、と熱で回らない頭で思った。冷蔵庫に冷えピタのストックがなくなっていて、たしかこの辺の引き出しにしまったはず、と適当な棚に手を突っ込んで漁った時、指先に何か硬くて小さくて冷たいものが触れた。取り出してみると、それはシュンとお揃いのピアスだった。あの日俺が傷付けてしまったピアス。彼がわざわざ届けに来てくれて、それで俺たちは別れ話をして。
「別れ話するなら返さないでよね~……」
熱があるせいで吐く息が熱い。そのせいか手の平の上のピアスはひんやりと冷たくて気持ちよかった。何気なく耳たぶを触る。2か月近くなにもつけていなかったそのピアスホールはほとんど塞がってしまっていた。
熱が下がってから、俺はもう一度ピアスホールを開け直して、なんとなくその傷のはいったピアスをつけた。シュンと別れてから何となく切りに行くのが面倒で伸ばし続けていた髪は、その鈍く光るピアスのついた耳を隠してしまうのだった。
4月が来て俺は3年生になり、ゼミ配属も決まり、サークルの新歓担当を任され、教育実習の準備も始まり、となかなかに忙しい日々を過ごした。
不思議な後輩もできた。2個下と思えないほど大人びていて、でも少年のように笑う。めちゃくちゃ音楽が好きで、驚くくらいの才能を持っていて、でも音楽に対してすごく暗い感情を持っていて、溢れんばかりのエネルギーの行き場を迷子にしているような。そしてときどき寂しい目をする。それがなんとなく似ている、なんて思ってしまう。
学祭ではこの後輩の彼が作った曲でライブもした。新歓ライブでほかのバンドのサポで出たこともあったけど、あの高揚感に包まれる感覚を得たのは久しぶりだった。やっぱり好きだな、あのライブの時の感覚。駆け抜けるようにたくさんのライブをこなした日々のことを思い出した。もう味わうことはないだろうと思っていたから、本当に大森君には感謝しなきゃだ。聴いた時も思ったけど、演奏してみて思ったのは、俺は大森君の作る音楽がかなり好きだということ。即興のセッションももちろん楽しくて、人とあれだけ息を合わせて演奏できることに驚いたけれど、それだけじゃない。大森君の作る音楽には、息が奪われるように惹きつけられる。そんなとこも彼を思い出す一因なのかもしれない。
あのライブで、俺はようやく呪縛から解放される。そう思っていた。ライブ後、浮遊感に揺蕩う中で、ぼんやりと、彼が作る音楽以外でも自分があれだけ引き込まれて、たまらなく楽しく演奏できると知れた。バンドが事実上解散してからずっと胸の内で燻っていた音楽に対する思い……未練と言ってもいい。それが昇華される。ようやく前に進める、そんな気がしていた。大森君と出会ったこと、一緒に組んで学祭ライブへ出場したことは、俺が自分の「夢」を手放さないための一歩をちゃんと踏み出すために、神様が与えてくれた機会なのかもしれないとさえ思っていた。
……でも俺は、予想だにしなかったまったく別の呪いに囚われてしまっている。あの浮遊感の中で俺ははっきりと思ってしまったのだ。「あの場所にいたい」と。ライブによる高揚感がもたらす一時的な感情だと思っていた。そうでなければ困るのは自分だ。思いを振り切るように、追いかけてきてくれた大森君にも引退宣言をした。しかし、その思いは日に日に増し、あのライブを夢にまで見る始末だ。人に対する想いよりもよっぽどタチが悪い、と自ら嘲笑するしかなかった。
変わらずに時間をとると約束した大森君には悪いが、夏休み中は何かと理由をつけて会わないようにしよう。彼だって、お披露目ライブに向けて新しくメンバー探しをしているに違いない。それを引退宣言した自分が、今更何を。……何を?俺は彼に会ったら何を口走ってしまいそうで怖いのだろう。ふと浮かんだ考えを勢い良く頭を振って打ち消す。そう、これは「現実的」じゃない。しばらく音楽から距離を置いて、勉強に集中すれば、この想いも落ち着くだろう。
「なぁ藤澤、おまえ8月は東京にいるねんな?」
学祭ライブが終わって数日経った頃、みっちーから電話があった。
「うん、今年は9月ずっと向こうだから、8月はこっちにいるよ」
「クロ、来月日本に少し帰ってくるし久しぶりにサークルの仲間集めて会おうって。……藤澤どうする?」
あの日、空港に行けなかった理由を俺はなんとなく誰にも言っていない。みっちーもミズノも特に触れてこなかった。スマホを持つ手に少し力が入る。
「行こうかな、見送り行けなかったの謝んなきゃだし」
なんてことないように言う。そう、俺はもう「大丈夫」だ。それを確認するためにも、彼に会う必要があると感じていた。電話の向こうでは、ちょっとほっとしたようにみっちーが
「そんなら頭数に加えとくわ」
と言って、電話を切った。少しだけ鼓動が早い。俺は無意識に左耳についたピアスを触った。
※※※
「過去編」はこれにて完結です、ありがとうございました!
藤澤視点で描かれる彼の過去はいかがでしたでしょうか?
明日からは「再会編」の更新が始まります。
全50話を予定している「特等席を君に。」、いよいよクライマックスに向けて物語も走っていきますので、よろしくお願いいたします〜!
コメント
11件
あっはァァァもう、ダメだ、涼ちゃん自分の気持ちは言っとかないとだよ??えっと、その方がきっといいはず!!
なんて過去なの😭 最後の描写!左耳のピアス!左耳ってことはもっくんの方であってるよね? 涼ちゃんが何気なく触ったのがそっちなのがきゅんとしちゃう 再会編も楽しみ!
うひょ〜、ヤバすぎる、ヤバすぎます… 涼ちゃんの気持ちがどうなるのか…うひょ〜〜!🙈