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健太は、いい暇つぶしだとクラスメイトにうそぶいていた中級英語の授業にさえ行かなくなった。その分、無味乾燥なカフェテリアの午後が、意味もなさげに延びた。フロア奥に置かれた古いグランドピアノの近くに、ラテンの男女に囲まれ笑っている、おとといの少年が目に付いた。愉快な雰囲気が、近くまで伝わってきては手前で止まった。そんな人達も世の中にいるのだ。健太はため息ひとつついて、空色のテーブルに組んだ絡まる指に視線を戻した。「やあ」 少年はこちらに気がつくと、前回同様の人懐こい笑みを浮かべつつ、生い茂る花の中から元気よく手を挙げてきた。健太は乾燥した砂漠の中から、力なく指先をあげた。
何を思ったことだろう。次の休み時間には、少年は健太しかいないテーブルにやってきた。彼の名前はミンと言った。やはり韓国人だった。ツヨシの話は相変わらず出たが、この日紹介されたのは別な日本人だった。マチコという、黒いセーターとブラウス、黒いスカートの色白の女性で、クラスメイトだという。年は健太よりいくつか下だろう。彼はマチコと日本語の丁寧語で話したが、それぞれがミンと話すときだけ英語になる。「ちょっと行ってくるね」ラテン人のグループからお呼びかかったミンは、いきなりテーブルを去った。本人曰く、午前中から夕方までびっしり授業を取っているので、自然と友達が多いのだという。でもまさか、それだけで友達はできまい。健太はこの語学学校にもう二年もいる。
取り残されたマチコとの関係は、ぎこちない母国語で紡がれた。もし仮に、勉強しにここに来ているという理由で、互いが下手な英語で話し始めたところで、ぎこちなさはさして変わらなかったことだろう。
「ところで唐突ですが、至急引っ越したいんです。誰かルームシェアしてくれそうな人、知りませんか」と健太は言った。マチコは丸くした唇の前で素早く手を振った。
「または、もしかしたらもうすぐ日本に帰るかもしれないんです。でも、本当は帰りたくないんです」
「すぐ帰るのに引っ越すんですか?」とマチコが聞いた。
「いえ、引っ越せれば帰らない、かもしれないんです」
「かも、ですか」彼女は首を傾げた。
会話はそこで、途切れた。店内を流れるBGMが、一曲まるまる終わった。マチコが足を、居心地悪そうに組み替えた。
「そういえば話は変わりますけど、ツヨシさんって人、ご存知ですか」と彼女は言った。
「ああ、ミンがよく言ってる人ですね。知ってるんですか?」
「いいえ、知らないです。彼の話によく出てきますよね」彼女はそういいながら、小さく笑った。
マチコは短期留学生で、あと一ヶ月ここで学んだあと日本に帰るという。ミンも短期留学生だということをこのとき聞いた。