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最初に違和感を覚えたのは、
夕方だった。
仕事から戻ってきた私は、
靴を脱いだ瞬間、
床が少しだけ遠く感じた。
(…まただ)
最近、
こういう瞬間が増えている。
「…お帰りなさい」
奥の部屋から、
彼の声がする。
その声を聞いただけで、
少し安心してしまう自分が、
怖かった。
「…ただいま」
返事をしながら、
壁に手をつく。
視界が、
ほんのり滲む。
(大丈夫)
(今日は、早く寝れば良い)
夕飯の準備をしようと
キッチンに立ったけれど、
包丁を握る手が、
思ったより重かった。
「…花田さん?」
背後から声がする。
振り向こうとして、
1歩、踏み出した瞬間。
― 世界が、落ちた。
「…っ」
床に座り込むより早く、
腕を掴まれる。
「…花田さん!」
彼の声が、
すぐ近くで聞こえた。
「…大丈夫ですか!?」
「…ごめん」
息が、
少し荒い。
「…ちょっと、気持ち悪くて」
彼は、
迷わず私を抱き上げた。
「…え、ちょっと ―」
抗議する声は、
途中で途切れる。
ソファに寝かされ、
額に、
ひんやりした感触。
「…熱、あります」
彼の声が、
いつもより低い。
「…大丈夫、ただの風邪」
言い切ろうとして、
言葉が途切れる。
「…花田さん」
彼は、
私の前に座って言った。
「…病院、行きましょう」
その言葉に、
胸がざわつく。
「…明日で、良い」
「…今です」
はっきりした声。
「…無理、し過ぎです」
その言葉に、
少しだけ、
胸が痛くなる。
「…迷惑、かけたくなくて」
正直な気持ちが、
零れる。
彼は、
首を振った。
「…迷惑じゃない」
即答だった。
「…僕が、一緒にいるって、言った」
その言葉に、
目頭が熱くなる。
しばらくして、
彼が水と薬を持ってきた。
「…これ、飲めますか」
「…うん」
薬を飲むと、
少しだけ、
身体が楽になる。
でも、
熱は下がらない。
「…今日は、ここで寝てください」
彼は、
自分の布団を
リビングに運んできた。
「…あなたは?」
「…ここにいます」
その距離が、
近い。
近過ぎる。
「…迷惑、ですよ」
私が言うと、
彼は、少しだけ笑った。
「…さっき、迷惑じゃないって言いました」
夜。
熱で、
意識が曖昧になる。
彼の気配だけが、
はっきりしている。
「…水」
小さく呟くと、
すぐに反応があった。
「…はい」
コップを持つ手が、
震えている。
(あなたが、震えなくて良い)
そう言おうとして、
声にならない。
「…大丈夫」
彼が、
私の額に触れる。
「…すぐ、下がります」
その仕草が、
あまりにも優しくて。
「…天音」
気付いたら、
名前を呼んでいた。
彼の手が、
止まる。
「…今」
静かな声。
「…俺の名前、呼びました?」
意識が、
揺れる。
(…言っちゃ、だめなのに)
「…ごめん」
謝ろうとした瞬間、
彼が言った。
「…良い」
低く、
はっきりした声。
「…呼ばれるの、嫌じゃない」
視線が合う。
距離が、
一気に縮まる。
「…じゃあ」
彼は、
少しだけ躊躇ってから言う。
「…由莉(ゆり)」
その呼び方に、
胸が強く鳴った。
境界線が、
音を立てて崩れる。
「…寝てください」
彼は、
私の手をそっと握った。
「…ここに、いますから」
その温度が、
心地良くて。
「…ありがとう」
そう言ったつもりだった。
でも、
声になったかどうかは、
覚えていない。
夜の静けさの中で、
呼び方だけが変わった。
それは、
元には戻らない変化だった。
― 名前は、
距離そのものだ。
そしてこの夜、
私達はもう、
“仮”ではいられなくなっていた。