他の新入社員達からは1日遅れて、私と麗も辞令の交付を受けた。
麗は秘書課へ。
私は受付へ。
それぞれ自分の希望した部署へと配属となった。
麗には広報への話もあったが、「もう、表に出る仕事はしたくない」との希望で、社長室つきの秘書見習い。しばらくは先輩達について、サポート業務に徹する予定らしい。
さっそく三崎さんや先輩秘書さんに連れられて、社内を歩いていた。
さすがに、昨日の一件があるからやりにくくないのだろうかと心配になるけれど、麗はまるで気にしている様子がなく、平気な顔をしている。
そういう強さが、私はうらやましい。
麗や賢介さんを見ていると、私にはない自信みたいなものを感じる。
プライドと言えばいいんだろうか・・・
きっと、育ってきた環境によって培われたものだろう。
それは、私にはない強さだ。
***
「藤沢さん」
「はい」
声をかけられて振り返ると、受付用の制服を着た若い女性が立っていた。
「私、小畑彩佳(おばたあやか)です。入社3年目。よろしくね」
とても優しい笑顔を向けられて、
「藤沢琴子です。こちらこそ、よろしくお願いします」
私も頭を下げた。
受付のスタッフは全部で20人ほど。
課長は男性だけどそれ以外はすべて女性。
先輩達もみんないい人で、昨日の欠勤など気にする様子もなく私を受け入れてくれた。
受付の基本的な業務は、正面受付をはじめ何カ所かに別れている受付の来客対応。
みんながシフトを組み交代で受付に入る。
その他は、来客の案内に呼ばれたり、事務室で事務処理をしたりの仕事。
半日ほど業務内容の説明を受けた後、案内用の制服を身につけて私も勤務に就くことになった。
「小畑さん。年齢もあなたが一番近いし、藤沢さんの指導係をお願いしますね」
「はい」
主任の指示に返事をし、私を見てにっこりする彩佳さんに、私も笑顔を返した。
***
彩佳さんについて初めて入った受付の窓口。
そこに声をかける人も様々で、横柄な態度のお客様や、いかにもセールスっぽいお客様。中にはナンパに来たのかってくらい話し続けるお客様までいて、みんな個性で溢れている。
新人の私にはすべてが新しい発見で、あっという間に時間が過ぎていった。
「琴子ちゃん。彼氏はいるの?」
お昼休みの時間、お弁当を食べながら彩佳さんが聞いてきた。
「いませんよ。彩佳さんはどうなんですか?」
「私もいないの。早くいい人見つけないとね」
ははは。
と、彩佳さんは笑っている。
「彩佳さんはどんな人がタイプですか?」
かわいいからきっとモテると思うけれど。
「うーん。年上がいいわね。優しくて、包容力のある人」
包容力。
そう言われて、なぜか賢介さんが思い浮かんだ。
「しいて言うならば、平石専務」
「えぇっ」
つい大きな声が出た。
***
「琴子ちゃん、どうしたの?」
いきなり大きな声をあげた私に彩佳さんの方が驚いている。
「いえ、何でもありません」
何でだろう、心臓がドキドキする。
「私は、平石専務みたいな人がいいわ」
手を止めてこちらを向いた彩佳さんに深い意図がないとはわかっていても、胸が痛い。
「平石専務ですか?」
自分でも声が震えているのがわかる。
「うん。いつもさわやかで、かっこよくて、素敵じゃない。それに私たちスタッフの名前を全員覚えてるのよ。信じられる?受付を通るときには必ず声をかけてくださるし」
「専務の事が好きなんですね」
無意識のうちに呟いた。
私だって賢介さんのことを素敵だとは思う。
だからこそあまり近づいてはいけないと自分に言い聞かせている。
でもこうやって目の前で言われると・・・
「何言っているのっ。専務はあこがれ。見て楽しむものよ。実際に付き合うのは、そうねえ・・・営業のホープくらいがいいわ」
「へー。そんなもんですか」
相槌を打ちながらも、私は顔があげられなかった。
それは、彩佳さんに隠し事をしているという罪の意識からだったと思う。
ごめんなさい彩佳さん。
でも今はまだ打ち明ける訳にはいかない。
***
トントン。
「失礼します」
そろそろ昼休憩も終わり受付に戻ろうかと立ち上がった時、受付に入っていた先輩の1人が慌ててた様子で駆け込んできた。
当然、事務室にいたみんなが注目する。
「どうしたの?」
先輩の慌てた様子に、まずは主任が反応した。
「あの、正面受付にヤクザみたいな人が・・・」
「「ええっ」」
彩佳さんと私の声がそろう。
「警備を呼びましたが、まだ大声で騒いでいます」
正面受付は通常3人で窓口に入る。
きっと3人だけでは対応できそうにないからと、先輩が応援を呼びに来たのだろう。
「それで、相手の用件は何なの?」
主任が厳しい声になった。
「よく分かりませんが、営業の坂井翼を出せと」
翼?
何で?
「とりあえず行ってみよう」
奥から出てきた課長が主任を呼び、3人で事務室を出て行った。
***
主任たちの後に続いて、私も彩佳さんと一緒にロビーへ向かった。
とは言え、さすがに堂々と出て行くことはできず物陰からこっそり覗く。
すると、受付前に派手な服装の男女がいた。
男性の方は、パンチパーマに金縁メガネ。
格闘技でのやっているんだろうかってくらい大きな体で、威圧的にカウンターを叩いている。
「だから、坂井翼を出せっ」
大声で叫ぶ男性。
男性の隣には、いかにも水商売風の派手な女性。
「何?取り立て?」
見物に出てきた野次馬から聞こえてきた声。
え?
意味が分からないって顔をする私に、
「時々、飲み屋の取り立てが来るのよ。まあ、さすがにあそこまで派手に騒いだりはしないけどね」
彩佳さんが説明してくれた。
でも、この人たちは取り立てじゃない。
私は直感でそう感じた。
その後すぐに現れた数人の警備員が、男女を取り囲んだのと同じタイミングで、
「翼」
突然、男が大声を上げた。
見ると、正面のエレベーターから翼が降りてくるところだった。
男を睨みつけるように歩み寄る翼。
「オイッ」
目の前に立った翼のネクタイを男がつかむ。
殴られるんじゃないかと思った瞬間、逆に翼が男の手をつかみあげた。
嘘。
強い。
あっという間に翼と男はもみ合いとなり、周囲には人集りができ始めた。
「これ以上騒げば警察を呼びますよ」
主任と共に駆け付けていた課長が止めに入る。
しかし、課長の言葉を聞いた翼の方が表情を曇らせたように、私には見えた。
「うるさいなあ。俺はこいつと話があるだけだ。警察なんて呼ぶな」
男が課長ともめだす。
その間も翼は何も言わない。
でも、私はわかった。
翼にとって警察を呼ばれるのは本意ではないこと。
それに、このままでは大事になる。
私はこっそり彩佳さんから離れると、ロビーの隅に隠れ携帯を取りだした。
本当はこんな方法はとりたくない。でも、このままでは翼が窮地に立ってしまう。
覚悟を決めた私は、通話ボタンを押した。
***
ブー ブー ブー
コールし続ける携帯。
ブー ブー ブー
やはり、仕事中だからすぐには出られないか。
ブー ブー ブー
それでも鳴らし続けると、
「はい、もしもし」
何十回目かのコールで、電話は繋がった。
「琴子です。仕事中にごめんなさい」
「どうしたの?琴子も勤務中だろ?」
驚いている声。
私は賢介さんに電話をかけた。
今、翼を助けてくれる人が他には思い浮かばなかったのだ。
「お願いします。翼を助けてください」
私は、今ロビーで起きている事を説明して、どうか警察沙汰にしないで欲しいと頼んだ。
図々しいのは承知している。
でも、今は賢介さんしか頼る人がいない。
「琴子・・・」
電話の向こうの賢介さんの言葉が止まった。
この春で出会ったばかりだけれど、翼は悪い奴じゃない。
私の大事な友達なの。
こんなことで、翼の将来がつぶれて欲しくない。
何とか助けてくださいとお願いした。
しばらく考え込んでいた賢介さん。
「分かった。琴子の頼みだから仕方ないな。大事にはならないように、処理するよ」
そう言ってくれた。
「迷惑かけて、ごめんなさい」
携帯を握りながら、私は何度も頭を下げた。
***
電話を切り彩佳さんの元に戻ると、すぐに正面受付の内線が鳴った。
電話に出る課長。
はい。はい。と頷きながら、真剣な表情だ。
しばらくして翼を呼ぶと、耳打ちした後受話器を渡した。
それから数分。
翼が受話器を置いたのを見計らったかのように、男と女性と翼が廊下の奥へと消えていった。
「別室に移動したみたいね。警察沙汰にならなくて良かった」
彩佳さんもホッとしている。
本当に、良かった。
私も立っている力が無くなって、その場にしゃがみこんだ。
***
翼と男達が姿を消してしまえば、ロビーは何事もなかったかのように静かになった。
先輩達もみないつも通りの業務に戻った。
「藤沢さん」
「はい」
午後の受付シフトを終え事務室に戻った私は主任に呼ばれた。
「秘書課の三崎課長が呼んでるけれど?」
不思議そうな顔をして私を見る目は、何か心当たりはあるかと聞いている。
困ったぞ。
賢介さんの家に居候していることは内緒なのに。
「もしかして知り合いなの?」
「ええ。三崎さんは・・・母の遠縁でして」
さすがに賢介さんの名前は出しにくくて、嘘をついてしまった。
「あら、そうなの?何か話があるみたいだから、行ってきなさい。今は手が空いているでしょう?」
「はい」
返事はしたものの、なんだか少し気が重い。
***
トントン。
秘書課のドアをノックする。
「はい」
返事を確認して、
「失礼します」
ドアを開けると、そこにいたのは三崎さんと数人の秘書さん。
麗も部屋の奥に座っている。
「藤沢さん」
三崎さんに手招きされ、私は部屋の奥へと進んだ。
秘書室の隅に置かれた応接セット。
「どうぞ」
勧められて、私は腰を下ろした。
その後は、しばらくの沈黙。
向かい合って座る三崎さんが、ジーッと私を見ている。
「今日は、すみませんでした」
さすがにいたたまれなくて、自分から口にした。
「間違った事をした自覚はあるんだね」
「はい。他に方法が思いつきませんでした」
私は正直に言った。
このままでは翼が困ると思って、必死だった。
あの時の私には他に方法がなかった。
「君の事情は分からないけれど、僕は専務の秘書だから、あえて言わせてもらうよ」
少し声を小さくして、厳しい表情になった三崎さん。
私も息をのんだ。
「君と専務がどんな間柄であろうと僕はかまわない。ただし、それが仕事に影響してもらうのは困る。専務の立場が悪くなるようなことはもっと困る」
「はい」
三崎さんの言うことはもっともで、私としては何も言い返す言葉がない。
「今日みたいなことは、2度とないようにしてください」
厳しい言葉だけれど、叱られて当然の自覚はある。
「申し訳ありませんでした」
一旦立ち上がり、きちんと頭を下げた。
「分かってもらえればいいです。専務も話がしたいみたいだから」
そう言うと三崎さんは席を立ち奥の扉へ向かう。
***
トントン。
「どうぞ」
聞こえてきたのは賢介さんの声。
三崎さんはドアを開けると、私だけを部屋へと入れた。
「座って」
いつも通りの賢介さんになぜかホッとした。
私は勧められるままソファーに座った。
秘書室のそれよりは随分重厚で大きなソファーに、向かい合って賢介さんも腰を下ろした。
「翼の事、ありがとうございました」
「うん」
「迷惑をかけてすみませんでした」
きっと叱られるのだろうと思いながら、私は先に謝った。
「史也に叱られた?」
「いえ、」
「俺は大分説教されたけれどなあ」
愉快そうに、私の顔を見る賢介さん。
説教ってことはないだろうけれど、三崎さんの事だから厳しい事を言ったのだろう。
そう思うと申し訳ない気持ちしかない。
「本当に、すみませんでした」
三崎さんにもしたように、私は立ち上がってきちんと頭を下げた。
「彼は、友達?」
え?
叱られるとは想像できても、翼との関係を聞かれるとは思っていなかった。
それでも、迷惑をかけたからにはきちんと説明するべきだろう。
「同期入社の仲間で、麗と3人で仲良くしているんです」
「そう」
なんだか考え込んだ様子の賢介さんの顔色が暗い。
「何か?」
「うん。彼、色々と事情がありそうだから。琴子が首を突っ込まないといいなと、心配でね」
首を突っ込むって・・・
翼とはどこか似たもの同士のような気がしている。
だから、放っておけない。ただそれだけで、それ以上の感情はない。
「とにかく、危ない事はしないようにね」
「はい」
私は素直に返事をした。
トントン。
「専務、お時間です」
三崎さんが声をかける。
私はもう一度お礼を言ってから、専務室を後にした。
***
その後、翼からメッセージが来た。
『今日の事で話がしたいから、仕事が終わったら3人で会いたい』
指定されたのは、何度か来た事のある創作居酒屋の店。
6時過ぎには上がった私は2人よりも早く店に着いた。
午後7時。
翼と麗が一緒に現れた。
「ごめん。お待たせ」
テーブルに着くと、翼がビールを3つ注文。
麗はメニューを見ながらお気に入りのつまみを探し始める。
なんだかいつも通りで安心した。
「で、何だったの?」
それぞれビールを一杯ずつ空けたところで、麗が訊いた。
「大学時代に働いていた店の女の子なんだけど、以前彼女が困っていたときに借金の保証人になったんだ。その借金は完済したって聞いていたんだが、実際にはかなり残っていたらしくて、俺に助けを求めてきたってわけ」
「だからって、会社に来なくてもいいじゃない」
すかさず麗が突っ込む。
「俺、基本的には他人に連絡先を教えてないだが、以前ポロッと勤務先を漏らしてしまったんだ」
「翼も馬鹿ね。そんな奴らに勤務先を教えるなんて」
すでに酔っ払っている麗が、説教気味に言う。
「それだけ彼女も必死だったってことだろう」
怒る訳でもなく淡々としている翼は、今日のことも仕方がないなくらいに思っているように見える。
私は、麗が言った『そんな奴らって』言葉が耳に残った。
***
「翼は、ずっと働きながら大学に行っていたの?」
私は気になっていた事を訊いてみた。
「まあね。大学も高校も夜は働いていた。母子家庭だったし、病弱な弟もいて、とても俺の学費なんて出せる環境ではなかったからね」
3杯目ビールを開けて、いつもより冗舌になった翼。
「ホストもしたし、ヒモみたいな生活をしていた事もある。お前達とは住む世界が違うんだよ」
「・・・」
私は黙り込んだ。
そんなことはない。
私も翼側の人間。
そう言いたかったけれど、言えなかった。
まだ口に出来ない過去が、私にもあるから。
「それで、今日の件はもう大丈夫なの?」
かなりお腹も膨れた頃に、麗が心配そうな顔をした。
「専務のお陰で、ちょっと派手な取り立て屋だったってことにしてもらった」
「そう。これからは気をつけなさいよ」
パンッ。
と、麗が翼の肩を叩く。
「ああ」
そう言うと私を見た翼。
「琴子。専務にお礼を言っておいてくれ。『お陰で首が繋がりました』と」
「うん。伝える」
「それと、琴子も、ありがとう」
「どういたしまして」
本当に、翼が処分されなくてよかった。
その後も3人で飲んで、気分がよくなった私たち食事の後にカラオケに行って、10時過ぎてから自宅に向かった。
***
さすがに最寄り駅までは人も多く、そんなに遅くなった気はしなかった。
しかし、自宅に向かうにつれて減っていく人影。
高級住宅街だけに、近くにコンビニもないから余計に人通りがない。
「なんだか寂しいな」
思わず呟いていしまった。
早足で家まで向かい、静かに玄関の鍵を開ける。
いつもはチャイムを鳴らすけれど、さすがに10時半過ぎている今日は自分で鍵を開けた。
物音をたてないように玄関で靴を脱ぎ、リビングへ向かい、そろりとドアを開ける。
あ、
「賢介さん」
「琴子、お帰り」
嘘。
もしかして、
「私を待っていたんですか?」
「琴子が帰らないと、心配で寝付けないんだよ」
そんなあ・・・
無意識のうちに目頭が熱くなった。
「バカだなあ、泣くなよ」
いつの間にか私の前に立った賢介さんが、ポンポンと背中を叩く。
私は無言のまま、賢介さんの肩口に額を乗せた。
「琴子、これからも困ったことがあればまずは俺を呼んでくれ。必ず俺が助けに行くからな」
「フフフ、スーパーマンみたいね」
照れ隠しにおどけて見せたのに、賢介さんは真剣な表情で、
「そうだ、琴子限定のスーパーマンだからな」
そう言うと、クシャっと私の頭をなでる。
お願いそんなに優しくしないでと、私は心の中でつぶやいた。
今まで誰かに守られたことがないから、人の優しさに免疫がなさ過ぎてどうしたらいいのかさえ分からない。
賢介さんから感じる温もりの中で、この時の私はただ戸惑っていた。
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