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7月。
今日から案内の制服も夏服に替わった。
「琴子ちゃん、夏服も似合うわね。スタイルいいからかなあ?」
彩佳さんが夏服に着替えた私をマジマジと見ている。
「そんな事ないですよ」
私も新品の制服に袖を通した自分の姿を見つめた。
実際、スタイツがいいとは思わない。
太くもなく細くもなく、どちらかというと小柄な私は良くも悪くもコンパクトな印象。
間違っても目立つことはないし、麗のような華のある人間でもない。
それでも、スカートと半袖のオーバーブラウスにスカーフだけの夏用の制服は、ジャケットがないだけでも随分身軽に感じる。
「では、今日も1日よろしくお願いします」
主任の挨拶で朝の申し送りが終わり、私は彩佳さんと正面受付の勤務に向かった。
***
入社から約3ヶ月が過ぎ、仕事にもだいぶ慣れた。
初めは人前に立つこと自体が不安だったけれど、今ではニッコリ笑って対応もできるようになった。
さすがに平石家での生活にはまだ不慣れだけれど、少しずつ馴染んでいくしかないのだろうなと今は思っている。
「あの、すみません」
目の前に立った女性に声をかけられ、私は立ち上がった。
「いらっしゃいませ。いかがなさいました?」
マニュアル通りの対応で、相手の用件を尋ねる。
「平石専務と約束をしているんですが」
平石・・・専務。
思わず黙ってしまった。
動揺し過ぎなのは自分でもわかっている。
平常心でいなければと思うけれど・・・私はそんなに器用な人間じゃない。
「失礼ですが」
固まってしまった私に代わり、彩佳さんが横からフォローしてくれた。
「私、谷口と申します。10時に伺う約束なんですが」
女性は微笑みながら、チラリと私の方を見る。
ん?
どこかで、見覚えがある顔。
「少々お待ちください」
そう言うと、彩佳さんがカウンターの隅まで行き秘書室に電話をかけはじめた。
それにしても綺麗な人だな。
失礼とは思いながら、私は女性を見つめていた。すると、
「あなた、藤沢琴子さんでしょ?」
突然、女性いや谷口さんが私の名前を尋ねた。
「はい」
名札を見られたかな、それとも私の態度がおかしかったのだろうか。
「賢介さんから、伺っています」
「えっ」
その言葉を聞いて、私の思考はフリーズした。
「近いうちにぜひ、お食事でもしましょう」
「・・・」
返事もできないまま、私は馬鹿みたいに立っていた。
賢介さんがむやみやたらと私のことを話すはずがない。
と言うことは、谷口さんと賢介さんは親しい間柄だってことだろう。
友人かもしれないし、もしかしたら恋人かもしれない。
もしそうなら、突然居候として転がり込んできた私に良い感情を抱くわけがない。
マズイぞ、凄くマズイ。
「谷口様、お待たせしました。ご案内いたします」
電話を終えた彩佳さんが、カウンターを出て専務室へと案内する。
私は会釈をして、重役フロアへと向かう二人の後ろ姿を見送った。
***
「今日のお客様。モデルの谷口美優でしょ。さすがに、綺麗だったわね」
お昼休みの社員食堂でお弁当を広げながら、彩佳さんが話しだした。
ああああ、分かった。
確かにどこかで見た気がしたけれど、モデルの谷口美優か。
「琴子ちゃん何か話しかけられていたけど、知り合いなの?」
「いえ」
どうやら綾香さんに見られていたらしい。
「気を付けなさいね。噂では専務のお相手らしいから」
専務の、お相手?
不思議そうな顔をした私に、彩佳さんはなおも話し続ける。
「彼女も谷口物産のご令嬢だから、専務との縁談が持ち上がってもおかしくないわ」
賢介さんに、縁談?
冷静に考えれば、この先平石財閥を継承することが決まっている賢介さんに縁談があるのは当たり前のことだ。
頭ではわかっているのだけれど・・・
「まあ、私たちには無縁の話よね。琴子ちゃん、コーヒー飲む?」
後半は、食後のコーヒーを尋ねられた。
「いいえ、私はいいです」
「そう」
席を立ちコーヒーを買いに行く彩佳さん。
その時、
ブブブ ブブブ
メッセージが来た。
あれ、麗からだ。
『谷口美優が琴子と連絡が取りたいって言ってるけれど、知り合いなの?さすがに連絡先を教えるのは嫌だから、あなたに美優の連絡先を送るわ。嫌じゃなかったら、連絡してあげて』
と、美優さんの連絡先を添付してあった。
学生時代の麗は読者モデルをしていたから、きっとその頃の知り合いなんだろう。
もちろん、私は自身は美優さんに用事はないが、賢介さんとの事で誤解があるなら説明した方がいい気もする。
どうしよう・・・
「琴子ちゃん。戻るわよ」
昼休みを終えた彩佳さんが食堂の入口で私を呼んでいる。
私も急いで席を立つと、彩佳さんと共に午後の勤務に向かった。
***
その日の午後、賢介さんと三崎さんが正面ゲートを入って来た。
「外出の帰りかしらね」
賢介さんを見た彩佳さんが呟く。
「そうですね」
私はなぜか直視できなくて下を向いた。
どんなにうつむいていても、賢介さんが前を通れば周囲のざわつきでわかってしまう。
それだけ賢介さんは常に周囲からの注目を集めている。
私はじっと手元を見つめたまま、周囲が静かになるのを待った。
しかし、
「お疲れ様」
突然かけられた声。
私の前には人影があって、賢介さんがいつも使うシトラス系のコロンの香りがする。
「専務、お疲れ雅です」
私の横にいた綾香さんがあいさつに立ったタイミングで、私も立ち上がった。
「今日から夏服ですか。小畑さんも藤沢さんもよく似合ってますね」
「ありがとうございます」
満面の笑顔で彩佳さんが答える。
それでも、私は黙っていた。
この、みんなを騙している感じがたまらなく嫌だ。
出来る事ならすべてを話してすっきりしたい。
でも、私が平石家を出てしまえばそんな必要も無くなる。
そう思うから、今は黙っている。
あー、こんな生活がいつもで続くんだろうか。
「琴子ちゃん?」
彩佳さんに呼ばれて我に返った。
すでに賢介さんの姿は消えている。
「大丈夫?」
「はい。すいません」
自分でも挙動不審なのは分かっているが、今の私にはどうすることもできない。
後半年くらいは平石家に居候して、来年春を目指して一人暮らしを始めようと私は思っている。それまではこうして過ごすしか方法がない。
***
麗の連絡から2日ほどたった。
私は凄く悩んだものの、美優さんに連絡を入れることにした。
もちろん賢介さんとの関係には何も触れず、ただ麗から連絡をもらったのでとメッセージを送った。
その後、その日のうちに美優さんから夕食のお誘いを受けた。
本音を言えばあまり行きたくなかったけれど、断わる理由もなくて誘いに乗った。
それに、もし賢介さんのことで誤解があるのなら1度きちんと話した方がいいとも思った。
指定されたのは、都内の高級イタリアン。
庶民の私には何を着ていこうかと悩んでしまいそうな店だ。
そして美優さんが出した条件は、『賢介さんに何も知らせずに来て欲しい』と言うもの。
私は『分かりました』と返事をし、奥様には「友人と食事をして帰るから遅くなります」とだけ連絡を入れた。
***
午後7時。
いかにも高そうなお店に、私は通勤着のまま入った。
さすがに高級店というか、いささか場違いな私の姿を気にする様子もなく、予約された個室へと案内してくれる。
「琴子さん。急に呼び出してごめんなさいね」
すでに席についていた美優さんが、にこやかに迎えてくれた。
「すみません。遅くなりました」
「いいのよ。私たちも今来たところだから」
見ると、美優さんの他にもう1人男性が座っている。
「あの、こちらは?」
さすがに気になって尋ねた。
「こちら、木下大地さん。親しい友人なの。同席してもかまわないかしら?」
「え、ええ」
としか答えようがない。
美優さんと私、そして大地さんの3人でとても美味しいイタリアンをコースで頂いた。
途中何度かワインを勧められ、断わる事も出来ずに飲み続けた。
「美優さん」
かなりお酒が入り、これ以上後ではまともな話が出来ないと感じた私は、自分から口火を切った。
「なに?」
と、私を見る美優さん。
「今日呼ばれたのは賢介さんの事ですよね?」
酔っぱらう前に話を聞かないことには、何しに来たのだかわからない。
「ええ、そうね」
持っていたグラスを置いた美優さん。
「多分、美優さんは誤解をしていらっしゃるんだと思います。私は奥様、いえ、賢介さんのお母様と知り合いなだけです。事情があって、今はお宅においていただいていますけれど、それも一時的な事と思っています」
「本当に?」
鋭い視線が私に向けられる。
「はい。美優さんが心配されるような関係ではありません」
フフフ。
笑顔になった美優さん。
「そう。安心したわ。同居しているって聞いて心配になったのよ」
ごめんなさいねと、何度も謝ってくれた。
「いいんです。誤解させた私も悪いんですから」
私も謝り、食事の終わりを見計らって席を立った。
***
お酒が入ったとは言え、酔っ払うほどの量ではなかった。
でも、立ち上がっただけで、少しふらつくような感覚。
ん?
おかしいな、体に力が入らない。
「琴子さん。少し酔ったみたいね。大地さんに送らせるわ」
「いえ、大丈夫です」
とは言ったが、確かにフラフラする。
それに、この感じは・・・
「お手洗いへ行ってきます」
私は個室を出て、トイレに駆け込んだ。
トイレの個室に入り、周りに誰もいないことを確認してカバンから携帯を取り出した。
プププ プププ
『もしもし』
「もしもし翼?」
『琴子?どうしたの?』
驚いている翼の声。
「悪いけれど、助けてくほしいの」
私は手短に事情を説明し、カバンの奥に通話ボタン通したままの携帯をしまい込んだ。
トイレから出てくると、美優さんと大地さんが待っていた。
「じゃあ、行きましょ」
なぜか笑顔の美優さん。
私は大地さんに体を支えられながら、車に乗り込むことになった。
***
美優さんとは別れ、大地さんの運転する車で二人きりになった車内。
車の揺れのせいか酔いはドンドン回っていく。
「琴子さん、大丈夫?」
大地さんが運転席から声をかける。
「なんだか気持ち悪くなってきました。今どのあたりですか?」
「もうすぐ駅を通過するところだよ。本当に大丈夫?どこかで少し休もうか?」
親切そうに言ってくれる大地さん。
「あ、このお店は私が好きなブランドが入っているんです」
「そうか、じゃあ今度一緒に行こう」
それとなく地名や店名を織り交ぜながら、私は大地さんと会話をした。
それから15分ほど。
家はどこかと聞かれることもなく車は走り続け、気が付けば薄暗い駐車場に止まった。
「さあ、着いたよ。少し休んで帰ろう」
「ホテル、ペーパームーン?」
いかにもラブホテルって感じの名前を私は口にした。
「琴子ちゃん一人では歩けないだろうから、僕の肩に捕まって」
「いえ、一人で・・・」
さすがに距離をとろうとする私を、大地さんが担ぐようにして車から降ろす。
このままではマズイ。私は大地さんに連れ去られてしまうと思ったその時、
「待てよ」
駐車場の入口から聞き慣れた翼の声がした。
***
バシッ、ドスッ。
耳に入ってくるのは、もみ合う音。
意識もうろうとした私は駐められた車にもたれかかりながら、かろうじて立っていた。
しばらくして、
「警察を呼ばれたくなかったら、消えろ」
ドスのきいた一言で、大地さんは逃げていった。
「琴子、大丈夫か?」
翼が駆け寄り、私を支えてくれる。
「ダメ、大丈夫じゃない。お酒に何か混ぜられたみたいで、凄く気持ち悪い」
飲んでいる途中から何かおかしいのは気づいていた。
でもまさかお酒に何か混ぜるなんて、思ってもいなかった。
「琴子も無茶するよな。俺が来なかったらどうしていたんだよ?」
私を睨みながら、説教口調の翼。
「仕方ないじゃない、他に方法がなかったのよ。それに、翼はちゃんと来てくれたでしょ」
危険な行動なのは理解している。
もしも翼が来てくれなかったらと思うと、想像するだけで怖い。
それでも、いざとなれば大声で騒いで逃げ出すつもりだった。あの時点ではそれができないほど酩酊していたわけでもないし、過去にも同じような経験がありまだ大丈夫だとの自負もあった。
「もしかして、こんなこと初めてじゃないのか?」
「まあね」
私の返事を聞いた翼が、意外そうな顔をする。
やっぱりそんな顔になるよね。
自分でも褒められた生き方でないのはわかっている。
でもね、それが私なんだから仕方がないじゃない。
「で、後は自宅に送ればいいんだな」
「うん、お願い。ありがとう翼」
無事逃げ出せたことにホッとして気持ちが緩んでしまった私は、翼が運転する車の後部座席で意識を失った。
***
次に目を開けたとき、私は自分の部屋のベットの上にいた。
うーん、頭が痛い。
私はゆっくり起き上がろうとして
「痛ッ」
こめかみを押さえた。
「無理せずに、寝てないさい」
声のする方を振り返ると、そこにいたのは賢介さん。
ソファーに座り、じっと私の方を見ている。
「今、何時ですか?」
窓から差し込む日差しから、そんなに早い時間ではない気がする。
もし寝すぎたのなら、早く支度をして会社に行かないと。
「7時だけど、今日は仕事には行かせないよ」
「え?」
すでに起き上ってベットから出ようとしていた私の動きが止まった。
「そんな体じゃあ仕事にならないだろ」
「でも、自分の都合で休むなんて。みんなにも迷惑をかけるし」
二日酔いの体調不良は完全に自己責任。
そんなことを理由に会社を休むなんてできるはずがない。
「琴子」
ソファーから立ち上がった賢介さんは、ツカツカと近づいてきて私を見下ろした。
「ならどうして、こんな危険な事した?なぜ僕に言わなかった?」
「それは・・・」
「谷口美優と、一緒だったんだよね?」
「・・・」
「琴子」
真っ直ぐに見つめられて、私は仕方なく小さく頷いた。
それっきり賢介さんは黙ってしまった。
***
しばらくして、奥様がお水と薬と野菜スープを持って現れた。
「すみません」
きっと心配をかけたのだろうと、私は素直に謝った。
「正直、昨日は驚いたわ。お願いだから、もう2度としないでちょうだい。年頃の女の子が酔っ払って帰るなんていい事じゃないわ」
奥様なりに叱ってくれているのが分かって、返って胸が熱くなった。
「とにかく、今日はお仕事を休みなさい。もし琴子が仕事に行きそうならすぐに連絡してもらいように母さんにも言っておくから。いいね」
「・・・はい」
いつもとは違い怒っている様子の賢介さんに、私はそう答えるしかなかった。
今まで人から心配される経験が少ないせいかこんな時どうしたらいいのか分からないけれど、今日はおとなしく家にいよう。
彩佳さんや先輩達には申し訳ないけれど、私は会社に連絡して今日一日お休みをもらう事にした。