「その塾の先生が、最初はただ親切な人だと思っていたんです。年上で、とても落ち着いていて……他の先生たちより親身になって勉強を見てくださることが多くて……。それだけで、私……安心してしまって」
彼女の声はかすかに震えていたけれど、話を止めることはなかった。
「でも、ある日……授業のあとに待ち伏せされてて。『篠宮は他の先生たちには見せない笑顔を、俺にだけくれるね? それは俺のことを特別に思ってくれてるからだろ?』とか……勝手に、勘違いされて……」
沙良は、手をぎゅっと握りしめた。
机の下で、その握りこぶしが震えているのが見える。
「違いますって何度断っても、『照れなくていいよ?』って携帯に鬼のように電話が来るようになって……。塾で必要だった書類に書いてあったのを、見られたんだと思うんですけど……無視し続けてたら、塾の帰りに最寄りの駅で待ち伏せされるようになりました。怖くて怖くてたまらなかった。でも、誰にも相談できなかった。親にも、友達にも……言えなかったんです。……私が悪いんじゃないって信じてもらえる自信がなくて。だって……私、先生からハッキリ言われたから……」
そこで言われた言葉を思い出したのか、捕食者を前に怯える小動物みたいに、ふるふると肩を震わせた。
「私が先生を誘惑したのが悪いって。受験生の癖にメイクまでして……。色気づいたことしてチャラチャラしてるのが悪いって……」
声はか細く、どこか諦めたようで。
でも、今にも泣き出しそうな強張りが、言葉の端々に滲んでいた。
「私、特別お洒落をしているつもりはありませんでした。でも……言われてみたら色付きのリップとか使ってましたし、目元にちょっとだけ……アイメイクとかもしてました……」
そんなのは沢山の同級生たちがやっていることだったし、もっとしっかりフルメイクをしている友達だっていた。つけまつげをしている子だって。
でも、塾講師は当然のように沙良に言ったのだそうだ。
「沙良ちゃんは元がいいからね。そのままでも十分可愛いのに追い打ちのようにそんなことするってことは……男を誘ってるとしか思えないよ?」
と――。
そうしてギュッと抱きしめられて耳元で
「俺にはキミの気持ちが分かってる……。だからね、ちゃんとキミからの誘いに応えてあげるよ」
そう告げられた時には身の毛がよだった。
「受験の直前だったから、塾をやめることもできなくて……。両親が私のために色々無理して塾へ通わせてくれているのも分かってましたし、何とかその先生を避けながら通い続けました。……でも、本当はもう、限界で……」
そこで沙良は、ふっと息を吐いた。
まるで、心の奥に押し込めていた何かが、ようやく吐き出せたように、僕には見えた。
「本当は私、家から通える大学を希望してたんです。志望校もその範囲で決めていました。でも……もう地元にはいたくなくて……。あの人から逃げたくて……」
彼女は一瞬だけ僕を見て、すぐにまた目を逸らした。
「それで、レベルはもっと上がるけど、明都大学を受けました」
そのくらいインパクトのある志望校変更でないと、両親に申し訳なくて言い出せなかったらしい。
「もちろん、無理だって……そんな無謀なことやめた方がいいって……学校の先生や両親からは止められました。塾のほうからも例の先生が〝わざわざ家まで来て〟『悪いことは言わないから元の志望校に』って私を説得に来ました」
でも、だからこそ余計に絶対に明都大に受かってその先生から逃げなければ、と沙良は躍起になれたらしい。
「実を言うと……自分でも、受かるなんて思ってなかったんです。でも、先生から逃げたい一心で必死に勉強しました。受かってここに来れば、全部リセット出来るって、思ったから」
そこまで話して、沙良は少しだけ笑った。
でも、その笑みは苦く、痛々しいものだった。
見事明都大への切符を手にした沙良は、地元を離れたのを機に、イメチェンをはかった。
「私、別に目は悪くないんです。でも……伊達眼鏡を買って……美容院へ行く頻度もぐんと減らしました。メイクもしないって決めて、眉毛を整えるのもやめました。なるべく目立たないようにして、誰とも深く関わらないように心掛けたんです。それが……自分を守る唯一の方法だって思ってたから……」
(……そこまでしたのに、キミはその美貌を隠し切れなかったんだね)
僕は表情を崩さず、ただ小さく頷いた。
「そっか……。そんな事情があったなんて知らなくてごめんね。僕、凄く軽率だった」
言いながら、僕は沙良の眼鏡越しの瞳をじっと見詰めた。
「けど……沙良はすごいよ」
「えっ?」
僕の言葉に、沙良が『意味が分からない』という顔をする。
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