楽しみにしていたホームパーティーが終わり、またみゆの日常が始まった。
みゆは入社してからずっと営業部でアシスタント業務を行っている。
たまに営業の担当者と一緒に外回りをすることもあるが、基本的にデスクで作業することがほとんどだ。
(あーあ…早く帰りたいなー)
玉の輿に乗ったみゆは、もう仕事を続ける理由はない。
弘人が稼いでくるお金だけで十分すぎるほどの生活ができる。
しかしみゆは会社を辞める予定は全くなかった。
その理由は、みゆにとって“専業主婦はダサい”からだ。
みんなが羨むブランドバッグを購入したとしても、専業主婦だと『旦那が稼いだ金で散在している妻』という印象にしかならないだろう。
だから自分自身も大手企業で正社員として働いて、自立していると周りに思わせたかった。
「藤堂さん」
後ろから声を掛けられて振り返ると、営業先から戻ってきたばかりの課長が立っていた。
「急で悪いんだけど、明日の朝までにM社の過去3年のデータをまとめてくれない?」
(明日の朝かー…。残業確定じゃん。こんな夕方に頼んでこないでよ)
心の中ではそう思っていても、そんな表情は一切見せずにニコッと笑う。
「わかりました。明日の朝までにまとめられるように頑張りますね!」
可愛い女性社員が快く仕事を引き受ければ、男性上司に気に入ってもらえる。
それが分かっているから、みゆは上司の前ではいつも以上に可愛い子ぶる。
これは会社内で上手く生きていくための処世術だ。
「ありがとう!助かるよ。詳細は共有フォルダにあるから確認しておいて」
課長が自分のデスクに戻っていき、みゆは共有フォルダの中身を確認する。
その時、弘人から『今日は20時までには帰れそう』とメッセージが届いた。
(ひろくん、今日は早いんだ。たまには夕飯の準備もしないといけないよね)
みゆが家事をしなくて済むように、弘人が衣食住のサービスが充実している住まいを選んでくれていた。
しかし、みゆは良い妻だと弘人にアピールするためにできるだけ自分でも料理をすると伝えてしまった。
(そうだ!せっかくだし、今日くらい良い妻アピールしよう。ちょうど残業する気分じゃなかったし)
みゆは声を潜めながら、隣の席の武田真緒に声をかける。
「ねえ、武田さん。ちょっといい?」
真緒はみゆの2つ下の後輩で、黒い髪を後ろで1つに結び、メガネをかけていて、まさに地味な女性といった印象だ。
「はい、何ですか?」
「今日中にM社の過去3年のデータまとめてくれない?」
「えっ…でもそれ、今課長に藤堂さんが頼まれたものじゃ…」
「ほら、私新婚でしょ?独身の武田さんと違って、早く帰って旦那さんに食事作らないといけないんだ」
「で、でも…」
「私武田さんと仲良しだと思っているから、この前もホームパーティーに誘ってあげたんだよ。これを断るってことは、私とは仲良しじゃないってことだよね?本当にそれでいいのかなー?」
何か企んでいるような微笑みを浮かべるみゆに、真緒の顔は強張る。
みゆは媚びを売るのが上手く、上司から絶大な信頼を得ている。
そのためみゆを敵に回すという事は、会社での立場が危うくなるということだ。
「…わかりました」
「ありがとう!武田さんはやっぱり優しくて、頼りになるね。データまとめられたら、私のところにメールで送っておいて。明日の朝、確認したあとに課長に提出するから」
もちろん、仕事は真緒に任せても、課長には自分でやったとアピールする。
業務を軽減しながらも、上司からの評価は得られるというみゆにとって最善の方法だ。
(相変わらず武田さんって扱いやすいなー。やっぱり持つべきものは何でも言うことを聞く後輩だよね)
*****
予定通り定時に退社したみゆは、デパ地下に寄って総菜をたくさん購入してから帰宅した。
それを電子レンジで温めて、自分で作ったかのようにお皿に盛りつける。
「うん、いい感じ。これならひろくんも騙されるでしょ。あ、せっかくだしフォトスタにもアップしよう」
アレンジを加えて盛り付けているため、デパ地下の総菜だと誰にも気づかれない自信があった。
そしてフォトスタに投稿するとみゆの思惑通り、たくさんのいいねと『美味しそう』『料理上手なんですね』などのコメントが書き込まれる。
(みんな簡単に騙されてチョロいなー)
「ただいま」
「あっ、おかえりなさい」
弘人の声が聞こえて、みゆはエプロン姿で玄関までお出迎えする。
「あれ?その恰好…」
「今日帰り早いって連絡来たから、ひろくんのために頑張ってご飯作ったの」
「本当?それは楽しみだな」
弘人がスーツから私服に着替えてリビングに向かうと、ダイニングテーブルにはたくさんの料理が並べられていた。
彩り豊かなサラダ、豚の角煮、サーモンのマリネなどが並べられているが、もちろんこれらはすべてデパ地下で買ったもの。
みゆが自分で作った料理はひとつもない。
食事を始めると、案の定弘人は料理を大絶賛する。
「ん…美味しい!特にこの豚の角煮、お店出せるくらい美味しいよ」
「えー、ひろくん褒めすぎだよ。でも喜んでもらえて良かったー」
「でも、よくこんなに手の込んだ料理作れたね。帰ってからまだあまり時間経ってないでしょ?」
「あっ…」
帰宅してから1時間程度ですべての料理を作ったという設定になっている。
しかしそんな短時間では、ここまで柔らかくて味の染み込んだ豚の角煮にすることは難しいだろう。
みゆは頭をフル回転させて、誤魔化す方法を考える。
「えっと…私もびっくりだよ。最新の調理機器ってすごいんだね。こんな短時間で味が染み込むなんて」
「そうなんだ。家電も進化しているんだね」
その言葉に納得したらしく、弘人はそれ以上深く聞いてくることはなかった。
(危なかった…。料理時間のことなんて何も考えてなかったよ)
みゆは安堵しながら、今度からは調理時間が長いものは購入しないようにしようと心に決めていた。
*****
数日後——
弘人は日が暮れた後も社長室にこもって仕事をこなしていた。
すでに社員たちはほとんどが退社していて、社内に残っているのは数名といったところだろう。
(ちょっと休憩するか…)
コーヒーを飲むために社長室を出ると、誰もいないと思っていたフロアに人の気配を感じる。
しかし微かに物音はするのに、人の姿は見えなかった。
「…誰かいるの?」
弘人の声にしゃがみこんでいた人物が驚いて立ち上がる。
「すみません…!私です」
そこにいたのは、秘書の麗だった。
「なんだ、北村さんか。そんなところでどうしたの?」
「少し探し物を…」
詳しく話を聞くと、ポーチのファスナーに付けていたキーホルダーを無くしてしまい、この時間まで1人で探していたそうだ。
昼休憩後にポーチを使用した時には付いていたから、社内にあるのは確実らしい。
「俺も一緒に探すよ」
「えっ!大丈夫ですよ。ただのキーホルダーですし…」
「でも、大事なキーホルダーなんでしょ?」
麗はクールな性格で物に執着するようなタイプではない。
恐らく普通のキーホルダーなら仕方ないと言って諦めるだろう。
しかしこんな遅い時間まで必死になってキーホルダーを探している。
きっとそれほど麗にとって大事な物なのだと弘人は察した。
「…すみません。ありがとうございます」
そして2人で手分けしてキーホルダーを探した。
ゴミ箱の中身を出しながら1つずつ確認したが見つからず、今度は床に這いつくばって物陰の下などを探してみた。
そして——
「あった…!」
弘人がコピー機の下をのぞき込むと、そこにウサギのキーホルダーが落ちていた。
落とした時に弾みでコピー機の下に入り込んでしまったのだろう。
長い棒を使って、なんとかキーホルダーを掻き出して、それを麗に渡す。
「これで合ってる?」
「はい…!これです。藤堂さん、本当にありがとうございます」
普段感情を表に出さない麗が、安堵が入り混じった笑顔を弘人に向ける。
麗が探していたのは、中高生が好きそうなファンシーなウサギのキーホルダーだった。
普段シンプルなものを好む麗にはなんとなく似つかないデザインだ。
(誰か大事な人から貰ったものなのかな?)
麗の反応やキーホルダーのデザインからそのように思ったが、社員のプライベートに足を踏み入れるつもりはなかったため、特に聞くようなことはしなかった。
麗が帰宅してから、弘人はドリンクサーバーで淹れたコーヒーを持って社長室に戻った。
コーヒーを片手に何気なくスマホを手に取ると、みゆからメッセージが届いていた。
『仕事でトラブル発生して今日帰りが遅くなる!もしかしたら終電くらいになるかも…。先に寝てていいからね』
仕事に集中していたせいで気付かなかったらしく、メッセージが届いてからすでに2時間以上経過していた。
(こんな遅くまで残業なんて珍しいな)
そう思いながらも、何も疑うことなく『了解。仕事頑張って』と返信した。
*****
みゆのスマホに弘人からメッセージが届く。
しかしみゆのスマホがあるのは会社ではなく、ラブホテルの一室だった。
すでに行為を終えたみゆは、ベッドの上で裸のまま男性の逞しい腕の中にいた。
「スマホ鳴っているけどいいの?」
みゆを腕枕しながらそう尋ねるのは、みゆの会社の先輩で営業部エースの大崎颯太だ。
「いいよ、どうせ旦那だし。さっき『今日遅くなる』って連絡したから、その返事でしょ」
「可哀そうな旦那。結婚してまだ数週間しか経ってないのに不倫されるなんて」
「そうくんだって、同棲中の彼女いるのに浮気してるじゃん」
みゆと颯太の関係はこれが初めてではない。
むしろみゆと弘人が出会う前から関係は始まっている。
元々みゆと颯太は恋人関係だったが、半年前にみゆが弘人と婚約したことで別れることになった。
その半年の間に颯太は新しい恋人ができて同棲も始めていたが、つい先日から2人は再びこのような関係になってしまった。
「でもさ、この前突然抱いてって言ってきたのには驚いたよ。新妻のくせに欲求不満すぎ」
「仕方ないでしょ。初夜もまだなんだから」
「引っ越し初日の夜に拒否られたんだっけ?」
「そうだよ。こっちからキスして、流れを作ってあげたのに」
みゆは弘人の前では男性慣れしていないふりをしているが、実際はかなり経験豊富だ。
体の関係になった男性の人数は、両手両足の指を使っても数えきれないだろう。
だから結婚してもまだ手を出してこない弘人に対して不満を持たずにはいられなかった。
そしてベッドの上で拒否されたことで不満が爆発して、ついに元カレである颯太に連絡してしまったのだ。
「ねえ、旦那の話より…もっと私を満足させてよ」
「仕方ないな。じゃあみゆが嫌って言うまで攻めてやるよ」
颯太はみゆにキスを落として、右手でみゆの体をなぞる。
その感触にみゆは甘い声を上げた。
(そうくんは体の相性もテクニックも最高。やっぱり私の体を満足させられるのはそうくんだけかも…)
弘人が与えてくれない刺激を肌で感じながら、みゆは快楽に溺れていくのだった——
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