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窓を叩く冷たい雨が、馬車の車輪が跳ね上げる泥の音をかき消していく。
今夜、私は「鉄の仮面」と恐れられる男のもとへ、身代わりの花嫁として差し出される。
暗い車内に揺られながら、冷え切った指先をぎゅっと握りしめる。
実家のエインズワース家に突きつけられた、莫大な借金。
その返済を肩代わりする条件として提示されたのは、あまりにも残酷な「取引」だった。
戦場という名の地獄で心を失い、もはや誰も愛することができなくなった男——
ベル伯爵との政略結婚。
〝あそこへ嫁いだ女は、二度と笑うことができなくなる〟
〝屋敷の壁は、冷酷な伯爵に絶望した女たちの涙を吸っている〟
政略結婚の話が出てから、幾度となく耳にした不吉な噂話
彼のもとへ嫁ぎ、戻ってきた女は一人もいないという。
私を送り出す家族の瞳には、憐れみすら浮かんでいなかった。
ただ、厄介払いが済んだという安堵だけが、私を突き放していた。
馬車が大きく揺れ、遠くに重厚な鉄格子の門が見えてくる。
その先に待っているのは、噂通りの氷の監獄なのか、あるいは。
私は静かに深く、呼吸を整えた。
震える膝を叩き、逃げ出したくなる心を無理やり抑え込む。
たとえ、これから始まる日々がどれほど冷たく、救いのないものであっても。
借金のために売られた身だとしても、私は、自分の心まで諦めるつもりはない。
(自分の身を守れるのは…自分だけだ)
覚悟を決め、泥濘のなかを進む馬車のなかで、私は固く目を閉じた。