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娘の住むオンギの村はミーチオン地方の中でもとりわけ古いが、木造の住居はどれもまだ長くとも数十年の月日しか経ていない。古くからある礎石などには古のまじないが施されているが、もはやそれを解する者もおらず、その力は失われていた。
村の中でも最も新しい家は、村で最も多くのまじないに包まれている。茅葺きの屋根に施された三行の呪文は砂漠の民が決して口にしない言葉をいくつか含み、太陽を意味する比喩が必ず行の頭にある。戸口の扉の魔除けは沼の民の王城の『死霊も通さぬ堅き門』に刻まれた呪いの言葉の省略形で韻を踏んでいた。また窓辺には西方に隠されたる力の言葉と冬の朝の小鳥の鳴き声を組み合わせた加護が刻まれている。
そんな生家に娘が帰ってくると、家の前で義父と何者かが二人で話していた。わずかな月影を頼りに目を凝らす。それは一年ほど前に行商に出た義父よりもいくらか若く恰幅が良い強き者という名の村民だった。
「お久しぶりです」と娘は溌剌と話す。「ノンドさん。行商の旅から戻られていたのですね。たしか大河の交わる処地方を回っておられたとか。また土産話をお聞かせください。私、昔から大河の放浪民族の歌が大好きで、できれば……」とまで、言ったところで義父にたしなめられる。
「お前はすぐにそうやって……。ノンドは旅から戻って報せを聞いて、取るものも取り敢えず哀悼の言葉を携えてきたんだ」
娘は己の醜態に気づいて意気消沈し、小さな声で謝る。
「まあまあ、気にしないでくれ」と、ノンドは朗らかに言った。「そういうところはジニに似たね。それにしても久方ぶりだ。石英孔雀の塔に寄り添う月もかくやという美しい娘になったことだ。私は夕べに村に帰ってきてね。ジニの訃報を今しがた聞いてきたんだ」薄暗闇の中、目を伏せる娘に気づかず、ノンドは神妙な表情で義父に向き直る。「羊歯よ。さっきも言ったが、あの人は村の皆に愛されていた。みんなが彼女に助けられ、この村はさらに栄え、全ての窓辺に幸福が舞い降りた。私の三人の息子を取り上げたのも彼女だったな。困ったことがあれば我々に何でも言ってくれ。きっと村の皆が同じことを言ったろう」
「ありがとうよ」とルドガンは言った。先ほどまで義父は狐の解体をしていたということが、娘には血の臭いで分かった。「しかしまあ、何が変わるというものでもなかろう。死出の旅も明日で終わる。古くから言われるように、古き者ほど先を見て、後人の露払いをせねばならぬ。ノンド、お前の方こそ何かあれば言ってくれ。俺に比べればまだ若い」
「相変わらずだな」と言ってノンドは苦笑し、娘をちらと見る。「色々な土地を歩いてきた。土産も土産話も沢山ある。それに婿の世話くらいはできるが。そういえば他の子供たちはどうした」
「さあな」ルドガンはため息をつく。「みなジニに似たんだ。どこを放っつきあるいているのやら。……今夜はありがとうよ」
その表情には疲れが見えた。深く刻まれた顔の皴が強張っている。
「ああ、あまり気を落とすなよ」そう言うと行商人ノンドは灯を抱える夜闇の向こうへ立ち去った。
「おかえり」とルドガンはぼそりと呟き、家の裏手へと歩いていく。
「ただいま帰りました」娘はまだ申し訳なさそうな面持ちで言った。「あとは私がやります。義父さんは中へ」
ルドガンははたと立ち止まる。「もうほとんど終わったよ。飯を作ってくれるか」娘が元気にうなずくとルドガンは「手入れをしておこう」と言い、娘の弓と矢筒を受け取った。寂しそうな背中を見送ると娘の心にもまた冷たく乾いた風が吹くような気持ちになった。
いつもより遅い夕餉は狐を山羊の乳で煮込んだ汁物と、豆茸をいれた麦粥だ。湯気立つ塩気の強い汁物をルドガンが勢いよく食べるのを見て、娘はほんの少し安らかな気持ちを取り戻す。しかし、炉辺の爆ぜる音と食器の立てる小さな音しかない食卓の静けさに何か物足りない思いを感じた。
何度となく三人で囲んだ食卓で、義母のジニは一口食べるごとに娘の知らない何かについて話したものだった。
夏の星の並びの意味するところやその啓示に応える翡翠のお守りの作り方、遠い異国の信仰に伝わる歌の中で相争う鯨波の血を浴びる者と鋼顎の怪物、それに星々もまだ若かりし時代から歴史を紡ぐという神秘の色濃く残る北方の国々と傲慢な雪嵐について。
ジニの見た風景、聞いた歌、踏んだ土地、仰いだ空が湯水のごとく溢れ出たものだった。ジニの紡ぐ不思議と神秘の物語は村から遠く離れたことのない娘の胸を高鳴らせた。ルドガンはいつもその昔話や伝承を、娘と違って一言の言葉も挟まずじっと聞いていたものだった。
娘はもう取り戻せない過去を慈しんだ。思い出は色鮮やかだが、額縁の中に納まった絵のようにその外を知ることはもう出来ない。ジニの語り事の全てを聞いていたわけではなく、聞いていた全てを覚えているわけではない。そのことが娘の心を爪で引っ掻いた。
沈黙が両手足を投げ出して寝そべり、今や幼い頃より夜を共にした炉辺の火花だけがささめいている。
「義兄さんや義姉さんたちは今どこで何をしているのでしょう」重く柔らかい沈黙を精一杯押しのけて娘はぽつりと呟いた。
蝋燭の明かりの揺らめきか炉辺の炎のはためきか、ルドガンの顔に娘が見た事のない表情を作らせ、胸をざわつかせる。しかしそれを打ち消すようにルドガンは朗らかに笑った。
「義兄や義姉と言ってもお前は見たこともないはずだがな」
最も年若い義兄ですら娘が生まれる前に奉公に出たきり、そのままよその土地に住み着いたのだった。娘は少しだけ決まりが悪そうにして答える。
「それは、そうですけれど。この十四年間何度となく義母さんから話を聞きましたし、手紙を送ってくれる義姉もいますから。幼い頃はまだ見ぬ義兄や義姉と夜の夢でも、白昼夢でも冒険したものです。それに」と娘は一つ区切りを入れ、言いたいことを言うべきか言わざるべきか少しだけ思案し、言うことに決めた。「親の死に目にそばにいないなんて……親不孝者というものです」
ルドガンの表情を娘は盗み見るが、特に変化はないようだった。
「ジニにとってはお前がいてくれたなら十分だろうよ。それにどこにいるかも分からない者に何を伝えることもできなかったのだ」
娘は自分が意地悪な物言いをしたことに気づき、バツが悪そうに目を伏せる。
「縁を切ったわけではないのですよね?」
そうでないことは娘にもわかっていたが確認するように尋ねる。ルドガンは頷く。娘はそれを見て、窓辺に灯る星明かりに目をやる。覚えのある星座を追いかけると、娘はいつも決まって天の楽土へといたるきざはしの据えられた塔の頂上までやってくる。きざはしを上ったことはないが、塔の頂はウリオの山々をも見下ろせる高さにあり、当然冥府の様子もよく見える。今までは産みの母の様子をよく眺めたものだが、最近は義母の姿を探してしまう。久しぶりに再会したふたりはどんな会話をするのだろう、と考えてしまう。
「明日の夕暮れには私の産みの母が忠義者の涙の川の流れ込む谷間の門で義母さんを迎えているはずです。義母さんの弟子で義理の娘の……」
緋鳥鴨という産みの母の名を舌の上で転がして、しかし娘は口に出さなかった。産みの母について世の子供達よりも知っていることは少ない。ジニに伝え聞いたことが全てだ。ジニの義理の娘であり、長女であり、一番弟子であり、娘を産んですぐに亡くなった母だ。
ジニ曰く子供たちの中で、つまり弟子たちの中で最も魔法の才に乏しかった。娘は自分には魔法の才が無いと思っていたが、義母に言わせれば本当に血のつながった親子なのかと疑わしいほどに、娘は産みの母よりも魔法の才能があるらしい。
エイカは幼い頃から気弱でお喋りな娘だったという。そのくせきかん坊で悪戯の才能は誰よりも長けていた。誰にもばれないように村の悪がきどもに犬をけしかけたり、誰にも気づかれないように川に突き落としたり、誰にも悟られないようにまじないで森に迷わせたりしたそうだ。あの陰湿さから考えると妖精の子供だったのかもしれないね、とジニはよく言っていた。
何より誰よりエイカの悪戯を仕掛けられたのがジニだった。とはいえお仕置きという形で全てはエイカ自身に返ってきた。蛇で驚かそうという悪戯は蛇に異様に懐かれるというお仕置きで返され、弓弦を隠すという悪戯は両腕が張り詰めて戻らないというお仕置きに変わった。年を取れば悪戯に飽きたようだったが、奔放さは変わらなかったそうだ。
産みの母の悪戯話を聞いて娘は幼い頃よく笑ったものだった。娘自身も空想と共に冒険に出かけ、義父に見つかって連れ戻された事は何度となくある。村の外に出てしまった時などは義母にこっぴどく叱られ、真っ暗な屋根裏部屋に閉じ込められるというお仕置を受けた。
屋根裏の暗闇には義母の持ち物である不思議な品々がしまわれていた。どれもこれも珍しい逸品で、そして何より冒険の果てに手に入れる価値のあるものだ。勿論醜悪極まりないばかりか悪臭を放つ怪物たちがその品々を守っているので、娘は妖精にもらった知恵で怪物を騙し、天から降ってきた魔法の剣で怪物を退治する。そうして手に入れた『屍の灯』で辺りを照らすと無数の白い影がどこからともなく現れ、義母も現れた、以来屋根裏部屋に閉じ込められたことはない。
自分より臆病な子に対しては誰より優しかった、とジニは少し寂しそうな顔をすることもあった。産みの母の優れたところもよく聞かせてもらった。空想の母はよく遊び相手になってくれた。
義母ではなく義祖母ではないかと娘に問われた時、ジニは可笑しそうに笑った。それは産みの母エイカに頼まれてのことだという。義母ジニに迎えられるまで感じていた親のいない寂しさを自分の娘には味わわせたくない、と。
「もう寝なさい」とルドガンは言った。
「おやすみなさい」と狩人の娘は答えると、炉辺と星に祈りを捧げ、寝台に横になると多くの夜の夢を招き入れた。