「社内中、璃子ちゃんと中野専務の話題で持ちきりだよ」
「すみません」
昨日の飲み会には中野商事の社員もいたから、そうなるだろうとは思っていた。
それに、麗華が黙っているはずがないだろうし、
「別に謝らなくてもいいけれど、驚いた」
「ですよね」
現に今、荒屋さんはとっても困ったなって顔をしているもの。
「璃子ちゃんは、中野専務のことが好きなの?」
「え?」
まさか面と向かってそんなこと聞かれるとは思っていなくて、びっくり。
それに、荒屋さんから感じる淳之介さんへの嫌悪感は何だろう。
少なくとも荒屋さんは淳之介さんのことを嫌っているように感じる。
「璃子ちゃんは、茉子と俺が同期だったって理由で登生くんの父親じゃないかと思ったんだろ?」
「ええ」
「じゃあ、あの人はどうなんだ?」
あの人って淳之介さんのことだよね。
「姉と淳之介さんは接点もなくて、」
「それはあの人の言い分だろ?」
「ええ、まあ」
どうしたの?荒屋さんがおかしい。
いつも見せる表面上の笑顔が全くない。
「登生くんと同じ髪と目をしたあの人のことを、まずは疑うべきだと思うけれどね」
「だって、それは・・・」
淳之介さんは姉を知らないと言った。
登生に会った時だって、全く反応しなかった。
自分の子ならもっと反応するはずでしょう。
「荒屋さんは、なぜ登生が淳之介さんの子供だと思うんですか?」
あんまり確信的に言われたから、逆に聞いてしまった。
***
「そもそも、ハワイに転勤になっていた茉子が登生くんを連れて帰って来た時、同期の間で子供の父親は誰なんだって話題になった」
「でしょうね」
海外出向になった女子社員が独身のまま乳飲み子を連れて帰国すればいろいろ噂になったことだろう。
「結局茉子は何も答えなかったが、その時俺には不思議だなと思うことがあった」
「それは何ですか?」
「子供連れ帰国となれば色々と手続きが必要になるはずなんだ。例えば、扶養家族の申請手続きだって、子供と住むマンションだって、仕事中預かってもらうための保育園探しだって、とにかくやることは多いはずだ」
「ええ」
そうだと思う。
私も随分苦労したから。
「でも、茉子が帰って来た時にはすべての準備が整っていて、帰国して数日後には茉子は出社していた。それはまるで誰かが事前に準備をしていたみたいだった」
それって・・・事情を知る誰かがいたってこと。
それも会社にある程度の影響力を持った人が。
「それに、」
「まだあるんですか?」
思わず口を出てしまった。
「3年前。茉子が帰ってきたのとほぼ同じ時期に、それまではアメリカ本土の支社を回って仕事をしていた専務も日本に帰国した」
え?
淳之介さんは、3年前までアメリカで・・・
それって、偶然の一致だろうか?
***
「それと、これはあくまでも噂なんだが、ハワイで茉子と専務が一緒のところを見たっていう人間がいる」
「嘘」
そんなはずはない。
淳之介さんは、姉と個人的に会ったことはないって言っていたもの。
「間違いなく淳之介さんと姉だったんでしょうか?」
他人の空似ってこともあるかもしれない。
世の中に3人は同じ顔の人がいるって言うし。
「それはわからない。実際見たわけではないからね」
私だって登生の目と髪を見れば、淳之介さんに似た人が父親なのかと思っていた。
だから、ハワイで姉を見かけた人が淳之介さんに似た顔の人を見間違えても不思議ではない。
「専務じゃないと思いたい璃子ちゃんの気持ちもわからなくはないけれど、実際疑わしい点は多いんだ」
「そう、ですね」
なるほど、だから荒屋さんは淳之介さんを疑っているのか。
「もう一度専務と話をする方がいいと思うよ」
「ええ」
私もそう思う。
このままってわけにはいかないだろうから。
***
淳之介さんに対する疑念が消えることはないけれど、家事も育児も待ってはくれず、仕事が終わり買い物をするともう登生のお迎え時間になっていた。
「りこちゃん、きのうはかれーをつくったんだよ」
「そう。美味しかった?」
「うん。おかわりしていっぱいたべた」
「すごいわね」
夕方、保育園のお泊り保育から帰ってきた登生は楽しそうにたくさんお話してくれる。
心配していた夜泣きもなくて、朝までぐっすり眠ってくれたらしい。
何よりも笑顔で帰ってきてくれたことに、私はホッとしていた。
「ねえ、ボスはいつかえってくる?」
「うーん、今日は遅いと思うわ」
お泊り保育の話をしたい登生は淳之介さんの帰りを心待ちにしているけれど、たぶん登生が寝てからの帰宅になると思う。
「なんだー、つまんない」
プッと頬を膨らませる登生。
「仕方ないでしょ、お仕事だから。明日の朝は会えると思うから、その時に話したら」
「はーい」
元々、今日は淳之介さんも早く帰ってくる予定だった。
一緒に登生の好きなお好み役を食べましょうって言っていたのに、夕方になって「急に仕事が入ったから」と連絡があった。
***
「ぼくね、ひとりでおふろはいるよ」
「えー、大丈夫?」
「うん」
自信満々の登生。
こんな風にやる気を出しているときは否定しちゃいけない。
頑張れって応援して、足りない部分を補ってあげるくらいがいい。
確か育児書でそう読んだ。
「じゃあ、頭だけは私が洗ってあげるわね」
「うん」
ピコン。
メッセージの受信
あれ?
麗華からだ。
嫌だなあと思いながらも、気になるから開いた。
『淳之介さん、ホテルに女といるわよ』
簡潔な一文とともに送られてきた数枚の写真。
スーツ姿の淳之介さんと腕を組む綺麗な女性。
服は高そうなブランド物のワンピース。
身長は170センチくらいはありそうで、ライトブラウンの髪は肩を超える長さの柔らかなウエーブ。
でも、1番目についたのは女性の顔立ち。
彫りが深く目鼻立ちの整った日本人離れしたエクゾチックな美女。
そんな美女と淳之介さんが腕を組み並んで歩けばいやでも目立ってしまいそう。
***
ピコン。
また麗華からだ。
『今2人で部屋に入って行ったわよ』
頼みもしないのに2人で客室に入っていく後ろ姿の写真が送られてきた。
こんなものを送られて、私にどうしろって言うのだろう。
仕事かもしれないし、何か事情があるのかもしれない。
確かに、一見して高級ホテルとわかる客室に女性と2人で入って行くような用事が淳之介さんにあるとは思えないけれど、私にはどうすることもできない。
「りこちゃーん」
バスルームから登生の呼ぶ声。
なんだかとっても嫌な気分。
それでも、メールや電話で直接確認する勇気もない。
「りこちゃーん、かみをあらって」
「はーい」
淳之介さんのことがとっても気になるけれど、今は登生のことに集中しよう。
お風呂に入れて、ご飯を食べさせ、歯磨きをさせて寝かしつける。
小さな子供を抱えていると、自分のことを考える余裕も、その時間もない。
***
その日、淳之介さんさんが帰ってきたのは日付の変わった午前1時過ぎ。
私はずっと眠れなくて起きていたけれど、わざわざ起き出すことも声をかけることもしなかった。
「おやすみ」
リビングから聞こえる淳之介さんの声。
誰に言うともなく声をかけているんだろうと思いながら、
「おやすみなさい」
私も聞こえないくらいの小さな声で答えた。
明日の朝になったら、何事もなかったように笑って淳之介さんと話せるだろうか。
それとも、「昨日はどなたと一緒だったの?」って聞いてみようか。いや、無理だな。ただでさえ、麗華からはここを出ていけって言われてるのに、そんな図々しいことは聞けない。
ピコン。
また麗華だ。
『これでわかったでしょ?淳之介さんみたいな人があなたなんかを本気で相手にするはずがないのよ』
携帯の向こう側で、麗華が嬉しそうに高笑いしている姿が見える気がする。
悔しいけれど麗華の言うことは間違っていないのかもしれない。
***
「登生、もういいのか?」
「うん、ごちそうさま」
淳之介さんに対していくらかの不信感を抱えながら、登生がいてくれるおかげでいつもと変わらない朝が迎えられた。
こんな時こそ、子は鎹っだと実感する。
「璃子、今日も遅くなるから夕食はいいよ」
「はい」
「ボス、おしごといそがしいの?」
「ああ、これからしばらくは帰りが遅くなりそうだ。だから、登生は璃子の言うことを聞いていい子にしてるんだぞ」
「うん」
今までだって忙しくて帰りが遅い時はあった。
でもそれが続くようなことはなかった。
「登生の世話を手伝ってやれなくて悪いな」
ごめんと謝ってくれる淳之介さんに、私は何も言えない。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
登生と2人玄関を出ていく淳之介さんに鞄を渡すと、
チュッ。
いきなりほっぺたにキス。
「わぁー、ボスがチューした」
登生は大はしゃぎだけれど、私は固まったまま睨んでしまった。
「いいだろ、ほっぺにチューくらい」
「いや、でも・・・」
子供の前で。
「じゃあ、ぼくもする」
私の腕をクイクイと引っ張て登生がアピール。
「はいはい」
腰を折り、反対のほっぺを差し出すと、
チュッ。
嬉しそうに登生もチューをした。
「りこちゃん、いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
何なんだろういきなり、何かあるのだりうかと思うのは勘繰りすぎだろうか。
***
「で、淳之介さんは何か言っていた?」
ランチの時間に登場した麗華が私に聞いてきた。
「何も」
そもそも私が聞かないんだから、何も言うはずがない。
「璃子はそれでいいの?」
「いいもなにも」
私には何も言う資格はないと思っている。
私と登生はただの居候で同居人で、それ以上でも以下でもない。
「璃子はいいとして、子供はどうする気よ」
子供って、きっと登生のことよね。
それこそ、登生のことは淳之介さんには一切かかわりのないこと。
「何で登生のことが今出てくるのよ」
麗華が私に文句を言ったり、意地悪をするのは仕方がないと思うけれど、登生は巻き込まれたくない。
「え?淳之介さんの子供でしょ?」
「はあ?違うわよ」
きっと中野商事社内で流れているっていう噂を、麗華も本気にしたのね。
「じゃあ、父親は誰なの?」
「それは・・・」
それを言われると答えられなくて、私も口ごもってしまった。
***
「子供の父親じゃないって、淳之介さん本人が言ったの?」
「ええ」
お姉ちゃんとは仕事で顔を合わせただけだって、はっきりと言っていた。
「本当に?」
「ええ」
どうしたんだろう麗華、様子がおかしい。
「ねえ璃子、私、淳之介さんを見損なったわ」
「どういうこと?」
昨日まで『許嫁です』って騒いでいたのに。急にどうしたっていうのよ。
「はい、これ」
鞄の中から、麗華が写真を一枚取り出した。
「なに?」
見ると、写っているのはお姉ちゃん。少しおなかが膨らんでいて、マタニティー姿。
「これって、」
「そう、お姉さんが妊娠中の一枚。でも、見てほしいのはお姉さんの隣に映る人よ」
ああ、えっと・・・
え、嘘。
今よりかなり痩せていて、髪の長さも違うけれど、この顔は・・・
「淳之介さんに間違いないでしょ?」
「う、うん」
他人の空似ではかたずけられないほどよく似ている。
これはきっと、いや間違いなく淳之介さんだ。
「これでも違うって思える?」
「いいえ」
さすがに無理。
***
その後、私は麗華から例の写真を分けてもらった。
いくら目を凝らして何度見直しても、お姉ちゃんと映っているのは淳之介さんにしか見えない。
と言うことは、やはり登生は淳之介さんの子供。
今日の朝まで信じて疑わなかった人を急に信じられなくなって、私は正直途方に暮れていた。
「璃子、大丈夫?」
私の顔つきが変わったことで、麗華が心配そうに覗く。
大丈夫かと聞かれれば、全然大丈夫ではない。
でも、今は仕事中。どれだけ無理をしてでも、頑張るしかない。
改めて写真を見ながら、あんなに疑った荒屋さんの言うことは嘘ではなかったんだと思った。
一体私は何を見て何を信じていたのだろう。
そして、何が真実なのだろう。
本当なら、今すぐにでも淳之介さんに確認したい。
しかし、もし『本当は僕の子だよ』とでも言われたら私は立ち直れない。
そして、誰よりも淳之介さんに懐いている登生を傷つけることになってしまう。
それは避けないといけない。
***
「とにかく、少しでも早くマンションを出ることね。じゃないと、淳之介さんのお父様も黙っていないわよ」
「お父様って・・・」
中野コンツェルンの総帥よね。
「中野コンツェルンの直系は淳之介さん一人なんだから、お父様が心配なさっても当然でしょ?」
「それはそうだけれど」
私も登生も中野コンツェルンとは一切関係ないと思っている。
「淳之介さんが中野コンツェルンの跡取りである以上、私的な感情だけで結婚はできないのよ。家としても付き合いだって、公的な立場だってあるんですからね」
ふーん、大変なのね。
お金持ちの家に生まれなくてよかった。
「なに人ごとみたいな顔をしているのよ。あなただって部外者じゃないわ。気を付けないと子供を奪われる可能性だってあるでしょ?」
「はあ、何で?」
「あの子が淳之介さんの子供なら、中野コンツェルンの直系ってことよ。お父様が放っておくはずないじゃない」
「そんなあ・・・」
登生は姉の子で、今は私の家族。誰にも渡す気はない。
「だから、身の振り方を決めなさいって言っているの。あなたが淳之介さんのもとを去れば、誰ももう子供を奪おうなんてしないわ」
「本当に?」
「ええ」
この時の私は、財閥の直系ってものの意味が分かっていなかった。
そして、中野コンツェルンと私や登生は無縁の存在なのだと疑ってもいなかった。
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