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急に仕事が忙しくなった淳之介さんは、帰宅も午前様。
朝は一緒に食事をするものの、土曜日曜は仕事に行ってしまうことが多い。
そのことを登生はとっても寂しがっているけれど、色々と思うところがある私としてはすれ違いの生活をありがたいとさえ思っている。
「りこちゃん、ボズきょうもおしごと? 」
「そうね、忙しいみたい」
昨夜はとうとう帰ってこなかった。
そのせいか、数日顔を合わさないことも珍しくなくなった。
よほど忙しいのだろうと何も言わないようにしているけれど、もしかしたら仕事では無いのかもと思ったりもする。
麗華から例の写真を見せられてから半月。
私の中の不信感が消える事は無いけれど、登生が緩衝材になってくれるおかげで何事もなく淳之介さんのマンションに暮らしている。
もちろん私だって、このままでいいとは思わない。
登生の為にもはっきりとけじめをつけるべき。
それに、姉の相手が誰なのかがわかった以上もうこの街にいる必要もない。
だから、近いうちに登生を連れて実家に帰ることにした。
淳之介さんに言えばきっと嫌な顔をされるだろうから、全てが整ってから一気に引っ越しの予定だ。
***
「りこちゃん、おなかがいたい」
しょんぼりとした登生が私のエプロンを引っ張っる。
「はいはい、それは困ったわね」
一応相槌は打ったけれど、きっとこれは本当の腹痛ではない。
お友達もたくさんいて保育園を楽しんでいる登生だけれど、人と競い合うことが得意では無いようで、サッカーやドッチボールの接触を伴うようなスポーツを嫌う。
今日は確かサッカー教室の日だから、保育園に行きたくないんだろう。
運動神経はいいんだからもっと喜んでしてくれればと思うのに、本人には苦痛らしい。
「あんまり痛かったら先生に言ってね」
本当は休みなさいと言って欲しいのだろう。
でも、嫌だから休みたいではキリがない。
この先学校に行っても社会に出ても嫌な事はきっとたくさんあるだろうから、向かっていけるような強い子になってほしい。
少なくとも私はそう思っている。
「もう、あるけない」
今日はいつも以上にぐずってしまい玄関を出るときには足が止まった。
「じゃぁ、おんぶしてあげるから行きましょ」
結局、いつも以上の時間をかけて保育園へ送って行った。
***
何とか登生を送り出して、いつも通りの出勤。
朝からぐずり気味だった登生に不安を感じながらも、私はお店に出た。
「璃子ちゃん、大丈夫?」
カウンターの中でよろけてしまった私に、マスターが駆け寄って支えてくれる。
最近寝不足気味のせいか、時々立ち眩みがする。
きっと疲れがたまっているんだろうと思うけれど、
「少し座っていなさい」
椅子に連れて行ってもらい、冷たいお水を差し出された。
「すみません」
「いいんだよ。それより、専務に連絡しようか?」
「いえ、大丈夫です」
私だって、本当は会いたい。でも淳之介さんには言えない。
今までだったら2日に1度はお店に顔出してくれていた淳之介さんが、最近は滅多に現れなくなった。
それだけ忙しいってことだろうけれど、やはり寂しい。
カランカラン。
お店のドアが開く音。
「こんにちは、ランチ1つ」
「私も」
お昼の時間に合わせてやってきた荒屋さんと、続いて入って来た麗華。
「璃子ちゃん、調子が悪そうだね」
近づいてきた荒屋さんに顔を覗かれて、思わず体を引いた。
***
ここのところ、色んな意味で小康状態が続いている。
淳之介さんとは忙しくていつもすれ違い生活だし、なぜか荒屋さんもあれ以来何も言ってこない。
もちろん麗華は顔を見るたびに嫌味を連発してるけれど、今のところ受け流せる程度で治まっている。
「それで 、 引っ越しの準備はすすんでいるの? 」
ランチを待つ間、麗華が小声で聞いてきた。
「うん、まあね」
少しづつ準備はすすめている。
麗華には近いうちに淳之介さんのマンションを出ると伝えてある。
マスターにも今月いっぱいでお店を辞めさせてもらうように話をした。
登生の保育園もしばらくはお休みの予定。実家に帰り生活が落ち着いたらきちんと東京引き払わないといけないけれど、まずは淳之介さんのマンションを出るのが最優先。
どんなに説明をしたって淳之介さんが納得しているくれるとは思えないから、私には黙って逃げ出すことにした。
***
「具合が悪くなる位に悩むなら、本人にはっきり聞けばいいのに」
「姉と淳之介さんの関係については自分で聞くから少し待って」と言いながらなかなか切り出せない私に麗華は呆れ顔で言うけれど、これはそんなに簡単な話じゃない。
少なくとも私は淳之介さんがが好きだし、心から信頼していた。
本当に淳之介さんが登生の父親でお姉ちゃんと恋人関係にあった人ならば、それを隠して私と暮らしているとするならば、私はもう誰も信じることができない。
「男なんてねみんなそんなものよ。うちのお父様だって外に何人もの女がいるわ」
麗華にしては寂しそうな顔。
お金持ちで家柄が良くて麗華はいつもお姫様だったのに、苦労もあったのね。
今まで散々意地悪をされてきて今更好きになんてなれないけれど、正直かわいそうだなと思う。
「登生くんが淳之介さんの子供なら私が引き取って育ててもいいわ。もちろん璃子が育てたいなら、それを止めない。でもね、淳之介さんは私と結婚するの。そこは譲らない」
まっすぐに私を見る強い眼差し。
麗華はどんなことがあっても淳之介さんと結婚するんだと宣言した。
それに比べて私はどうだろう。誰よりも近くにいるくせに、小さな出来事ひとつひとつに右往左往して今だって淳之介さんを信じきることができない。
はあぁー。
本当に、私は何をやっているんだろう。
盛大にため息をついたところで、
「璃子ちゃん、電話が鳴っているよ」
マスターの声。
「えっ」
こんな時間にかかってくるのはたいてい登生の保育園。
また熱が出たのかなと思いながら、私は携帯に向かった。
***
「えぇっ」
周りのことも考えず、大きな声が出た。
だって、
「璃子さん、璃子さん」
電話の向こうから聞こえる声。
「何でそんなことに・・・」
園長先生も一生懸命説明してくださるけれど、残念ながらが頭に入ってこない。
私はただ呆然と立ち尽くしてしまった。
「どうしたの?」
異変に気付いたマスターの心配そうな顔。
「あの、登生が・・・」
「登生くんがどうしたの?」
荒屋さんも寄ってきた。
「いなくなったらしくて」
「「はあ?」」
みんなの声が重なった。
そりゃあそうだよね。
保育園に預けていた子供がいなくなるなんて、ありえない。
「とにかく、淳之介さんに連絡したほうがいいわ」
こんな時、意外に麗華が冷静で助かる。
私なんてオロオロするばかりなのに。
警察への連絡は保育園がしてくれるらしく、私は急いで淳之介さんに電話を入れた。
***
「一体どういうことなんだ?」
「どういうっていわれても・・・」
私が『プティボワ』を出る前に、淳之介さんが現れた。
きっと仕事を投げ出して駆けつけてくれたんだろう。
「登生は、保育園にいたんだろ?」
一緒に淳之介さんの車に乗り保育園へ向かいながら状況説明を求められるけれど、残念ながら私にも何が起きたのかはわかっていない。
「今日はサッカー教室の日だったから近くのグラウンドへ出かけていたのよ」
そう言えば朝からサッカー教室が嫌でぐずっていた。
「それにしたって、大人がちゃんとついていたんだろ?」
「だと思うわ」
園外に出るとなると保育士さんも同行するはずだし、いつも以上に大人の目があったはずで、子供が簡単にいなくなるなんてありえない。
「保育園に向かわれますか?」
運転席からたずねられ、
「いやまずは現場を見たいから、グラウンドへお願いします」
淳之介さんは登生がいなくなったグラウンドへ向かうよう指示した。
***
グラウンドは園から車で10分ほど。
大きな川の河川敷に作られた公園内のサッカー場。
すぐ近くには子供が遊べる遊具や、遊歩道もあり、私も時々登生と来たりする場所。
「ここは登生も来たことがあるはずだよな」
「ええ」
何度も来ているからどこに何があるかもわかっているはず。
「ああ、璃子さん、中野さん」
私たちを見つけた園長先生が駆け足でやって来た。
「あの、登生は?」
「いえ、まだ」
周囲には何人かの大人の姿が見えるから、きっと捜索してくれているんだろう。
「一体何があったのか教えてください」
別にきついことを言っているわけでもないのに、淳之介さんの言葉はとても冷たく聞こえた。
保育園として子供を預かっている以上する保護する責任があるわけだし、安全を確保する義務もある。
お世話になっているという保護者の立場もあるけれど、お願いしている以上は子供を守っていただきたい。淳之介さんの言葉からそんな真意を感じた。
「申し訳ありません、今日の登生くん朝から調子が悪くて、ここまでは一緒に行きましたが少し休んでいるとベンチにいたんです。保育士も気にして見ていたんですがいつの間にかいなくなっていて…」
クラス担任の若い保育士さんは既に涙ぐんでいる。
「とにかく近くを探してみます。警察にも届けが出ていますのですぐに見つかると思います」
園長先生は大丈夫ですよと言ってくださるけれど、淳之介さんは厳しい表情のまま。
「私の方でも探してみます」
そう言うと携帯を取り出してどこかに連絡を始めた。
***
「大丈夫、すぐに見つかるよ」
不安がっている私を、淳之介さんが励ましてくれる。
さっきからの電話で淳之介さんも色々と捜索の手を尽くしているらしい。
見る見るうちに人出が増えて、今は園の関係者よりも淳之介さんの呼んだスーツの男性たちの方が多くなった。
「この近くで、登生くんの行きそうな場所時はありませんか?」
園長先生に聞かれ、
「遊歩道の先に池があって、そこの鯉を見るのが好きですが・・・」
登生が勝手に行くとは思えない。
「そう言えばそこの近くにはお手洗いがありますよね?」
担任の保育士さんが思い出したように言う。
確かに、ここって大きな公園の割にトイレが少なくて、一番近いトイレはそこかもしれない。
「登生くん朝からお腹が痛いって言っていたから、もしかして」
「そうかもしれませんね」
園長先生と保育士さんの会話を聞きながら、胸が締め付けられる。
だって、登生は家を出る前から「お腹が痛い」と訴えていた。
私はそれを本気にしていなかった。
「どうした、璃子?」
泣きそううな気分になっていた私の肩を、淳之介さんがポンと叩く。
「私はやっぱり、登生のお母さんにはなれない」
「どうして?」
「だって、登生は朝から体調が悪かったのに、私はそれを信じられずに無理やり保育園に行かせてしまって、だから・・・」
母親なら、もっと子供話を聞いていたのかもしれない。
そうすれば登生がいなくなることだって、なかったはず。
「璃子、しっかりしろ。今の登生には璃子しかいないだろ?」
「そうだけれど・・・」
本当に私でいいんだろうか?
その時、
ブブブ ブブブ
淳之介さんの携帯が鳴った。
***
「は?どういうことだ?」
いつにも増して厳しい淳之介さんの声。
きっと何かわかったんだ。
「で?ああ、ああ分かった」
しばらく話してから電話を切った淳之介さんの困った顔。
「どうしたの?」
すごく怖いけれど、聞かないわけにはいかない。
「登生が見つかった」
「今はどこに?」
元気なの?そう聞きたいのになぜか聞けない。
それだけ張り詰めた空気を淳之介さんが出していた。
「病院にいる」
「え?」
頭の中を悪い想像だけが駆け巡る。
もしかして、もしかしたら。浮かんでくるのは悪いことばかり。
「大丈夫、元気だ。ただ少し脱水気味で治療を受けているらしい」
「そう」
無事でよかった。
「俺は園長先生たちの事情を説明してくるから、璃子は車で待っていてくれ。一緒に病院へ行こう」
色々と疑問点はあるけれど、まずは登生に会いたい。
それからじゃないと何も考えられない。
「じゃあ、先に行ってますね」
「ああ、すぐに行く」
多くの人が捜索に参加し警察まで来てしまった今回の騒動がすぐに収束できるようには思えなかったけれど、車で待つこと5分とかからずに淳之介さんが現れた。
「もういいの?」
「ああ」
登生のことで頭がいっぱいの私はそれ以上詮索することはしなかった。
***
車でやって来たのは、10階建ての大きな建物が2つ並んで立つ立派な病院。
看板には、『森記念病院』の文字。
ここは確か、先進医療に力を入れていて、ドクターの腕も一流で、有名人も多く通うって有名なところ。
私だって名前を聞いたことくらいなある。
「登生がここにいるの?」
「ああ、ここがうちのかかりつけだから」
「ふーん」
時々忘れそうになるけれど、淳之介さんは中野コンツェルンの御曹司だった。
そう思えば色々なところに顔が効いても納得できる。
「あれ?」
止まるんだろうと思っていた正面玄関を通り過ぎた。
「もう少し先に専用の入口があるんだよ」
「へえー」
専用の入口って何だろう。
一般ではない入口ってことかしら。
それから2度ほど角を曲がり、到着したのはホテルのエントランスのような場所。
車が着くと同時に扉が開けられ、降りると白衣を着たの数人が待ち構えていた。
「お久しぶりですね、淳之介さん」
親し気に声をかけるのは50代後半に見える男性。
「森先生、義無沙汰しています」
さっきまで厳しい顔をしていた淳之介さんの表情も少しだけ緩む。
にこやかに挨拶する森先生の胸元には『病院長 森寛之』の名札が見える。
ってことはこの病院で一番偉い人。
そんな人がわざわざ出迎えるなんて、さすが中野コンツェルン。
場違いにもそんなことを思った。
「璃子、行くよ」
「あぁ、はい」
ボーっとしていた私は、数歩前を歩く淳之介さんに呼ばれ病院の中に足を踏み入れた。
***
案内されたのは最上階にある見晴らしの良い個室。
何人座れるんだろうってくらい大きなソファーが存在感を出し、黙っていたら絶対に病室に待見えない豪華さ。
その窓際に置かれたベットの上で、
「りこちゃーん」
点滴につながれた登生が、泣きながら私を呼ぶ。
「登生っ」
私も駆け寄ってギュッと抱きしめた。
よかった。
無事でいてくれて本当に良かった。
「腹痛と、軽い熱中症で少し脱水症状が出ていましたので点滴をしています」
森先生の説明に、
「その他にどこか悪いところがありますか?」
淳之介さんが登生の症状を確認する。
「いえ、腹痛も風邪からくるものと思われますので薬を飲んで休めばすぐに良くなりますよ」
「そうですか」
淳之介さんの安堵した声。
「ごめんね」
私は何度も登生の頭をなでた。
朝、お腹が痛いと言った登生を休ませてやっていれば、こんなことにはならなかった。
「だいじょうぶだよ、りこちゃん。ぼくがのどがかわいたっていったら、おじちゃんがりんごじゅーすをくれたの」
「おじちゃん?」
「うん、おなかがいたいっていったらびょういんへつれてきてくれたんだよ」
「そう」
おじちゃんって誰だろう。
登生を連れ去った人?
でも、こうして病院へ運び込んでくれた人。
「先生」
淳之介さんが森先生を呼び、部屋の隅で話し始めた。
***
登生の言うおじちゃんについて、淳之介さんには心当たりがあるらしい。
淳之介さんの態度からそう感じた。
「璃子、俺は少し席を外すから登生と一緒にここで待っていてくれるか?」
「いいけれど、仕事に戻るの?」
「いや、今日はこのまま直帰にする」
「そう」
本当なら、「犯人は誰なの?」って聞いたみたい。文句の一つも、言えるものなら言ってみたい。
普通に考えて、黙って子供を連れ去るのは誘拐だと思う。
今回は登生の体調が悪いところを助けてもらったって側面があるけれど、人騒がせな行動だったことには間違いない。
「すまない、今回の件は親父の差し金だ」
私の気持ちを察したのか、淳之介さんの方から話してくれた。
「お父様?」
ってことは中野コンツェルンの総帥。
「今まで部屋に女性を入れたことなんてなかった俺が璃子と登生を住ませているって聞いて、探りを入れたんだろう。たまたま登生を追いかけていたらお腹が痛いってうずくまったらしくて、慌ててここへ連れて来た。それが真相らしい」
「ふーん」
やはり登生は助けられたのね。
「今回の件では璃子にも心配をかけたけれど、登生が無事に戻ったことで良しとしてくれないだろうか?」
淳之介さんの辛そうな顔。
「それは・・・」
「親父には俺からきちんと抗議しておくから」
頼むよと頭を下げる淳之介さん。
そもそも、私と登生がマンションに同居したことが全ての発端である以上何も言えず、私はただ「わかりました」と頷いた。
***
お父様が何を考えていらっしゃるのかが気にならないと言えば嘘になる。
でも聞けない。
だって、私はただの同居人だから。
これ以上踏み込んではいけない。そう自分に言い聞かせた。
トントン。
淳之介さんが出て行き少しした頃、森先生が現れた。
「診察をしてから、点滴を抜きますね」
「お願いします」
さすがに登生も点滴があれば不自由そうだし、抜いていただけるとありがたい。
「登生くん、もうお腹は痛くないかな?」
「はい」
「じゃあ、点滴を抜くからね」
「はい」
相変わらず、返事だけはいいんだから。
その後点滴を抜いてもらい。看護師さんにシールを張ってもらって登生はご機嫌。
私はその様子を森先生と共に見ていた。
「点滴や採血で服が汚れたので、着替えもしますね」
持参したわけでもないのに、新しい服が用意されている。
「もう少し時間がかかりますから、あちらでお話しませんか?」
森先生にソファーをすすめられ、
「はい」
私も腰を下ろした。
***
「改めまして森寛之といいます。中野家のホームドクターをしています」
「八島璃子といいます。登生がお世話になります」
きちんとご挨拶して、当たり障りのない世間話。
その間登生は看護師さんに相手をしてもらって楽しそうにしている。
ここは中野財閥のかかりつけ病院みたいだし、長居禁物。
早くここを出ないと、なんて考えていると。
「不躾なことを伺いますが、あの子は璃子さんのお子さんではありませんよね?」
唐突に、森先生から尋ねられ、
「ぇ、ええ」
驚いて、つい曖昧な返事になった。
どうやら、私はまだ母親には見えないってことらしい。
「すみません。失礼なことを申しました」
「いえ」
どんなに頑張っても、私は姉にはなれない。
でも、家族にはなれると信じたい。
そう思って登生を育てている。
「璃子さん、少しだけお話をしてもいいですか?」
それまでにこやかな顔をしていた森先生が、少しだけ口元を引きしめた。
***
「私の家は代々中野家の主治医でしてね、私は淳之介くんが生まれた時からずっと見てきました。周りより少し小さく生まれたせいか、子供の頃はよく風邪をひいてその度に父は中野家に呼ばれていました」
「へえー」
今はとっても丈夫そうなのに、子供の頃は違ったのね。
「でも、普段はとっても元気でしたよ。小さい頃にご両親が離婚されて、旦那様も淳之介さんを甘やかしていましたから、わがまま放題でそれはもう小さな王様のようでした」
当時を懐かしむように話してくださる森先生。
フフフ。
ぜひ見て見たかったな。
「かわいかったですよ」
「想像できます」
その後、森先生は淳之介さんの話をたくさん聞かせてくださった。
お母様と別れて寂しい幼少期を過ごしたこと。
お母様が外国の方だったせいで、周りと違う外見に虐められていたこと。
学生時代はお父様と衝突し、何度も喧嘩をして森先生のお世話になったこと。
悩んだ末、中野コンツェルンを継ぐのだと自分で決めたこと。
とても懐かしそうに、そして誇らしげに話してくださった。
***
「あの頃淳之介さんに比べると、登生くんはとって素直でいい子ですね」
「え?」
この時、森先生は登生を淳之介さんも子供と認識しているのだと気づいた。
中野家のホームドクターってことは、淳之介さんの実家にも行き来があるはず。
変な誤解を生まないうちに、登生は淳之介さんの子供ではないと否定しておいた方がいいのかもしれない。そう思っているのに、
「子供の頃の淳之介さんはやんちゃでとってもいたずらっ子したからね、そこはあまり似ない方がいいのかもしれません」
ハハハと、楽しそうに笑う森先生。
「あの、あの子は・・・」
淳之介さんの子ではありませんと言おうとしたのに、
「わかっています。小さい頃の淳之介さんを知る人間が見れば一目でわかりますよ」
え?
「目も鼻も口も髪も、すべてが小さな頃の淳之介さんそのものです」
「・・・・」
私だって、うすうす気づいていた。
麗華に見せられた写真から察してもいた。
それでも信じたくなくて、耳を塞いでいた。
それなのに・・・
「・・・子・・・璃子・・・しっかり」
耳元から聞こえる淳之介さんの焦った声。
口の中に広がる鉄の味。
そのうち強引に口を開けられて、ガーゼのようなものを噛ませられた。