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転校生@森帆
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奇蹟あい
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「……凌、大学行かなくていいの?」
ぞくり、と背筋に何かが走った。
「……っ」
泉の口から出た自分の名前が、思った以上に破壊力があったらしい。凌の手が泉の耳の後ろで止まる。
天音凌、二十一年間の人生で数々の告白を受け、あらゆる美辞麗句を聞いてきたはずの女が、たった三文字の名前呼びで固まっている。実に滑稽な光景であった。
「……ずる」
小さく呟いて、視線を逸らした。耳の先が赤い。ピアスの銀が、その赤みを余計に際立たせている。
「もう一回」
「凌……授業サボると後で響くよ?」
耳の赤いまま、泉を睨むように見下ろした。正論を連発してくるこの小さな生き物が、たまらなく厄介で、たまらなく欲しい。
「……泉がそう言うなら行くけど」
壁から手を離して、一歩引いた。が、すぐに振り返る。
「条件」
来た。先のキスの時に泉が「条件聞く前に結構」と遮った、あの続きである。
ポケットからスマホを取り出して、泉に差し出した。
「連絡先教えて。あと、リモートやめてキャンパスに戻ってきて」
気怠げな目が結花を捉える。
「じゃないと明日もここ、来るから」
「……条件ってなんの?」
スマホをくるくると指で回しながら、泉を見下ろした。
「そんな難しいことじゃないよ」
指を立てて数え始める。
「一、連絡先の交換。二、リモートやめる。三、昼休みは私と学食で食べる」
三本の指を結花に向けた。
「これだけ」
これだけ、と凌は言う。しかし冷静に考えてみてほしい。連絡先はまだしも、リモート停止は泉の安全圏を剥がす行為であり、学食での昼食は衆人環視の中で凌の隣にいることを強制されるに等しい。三つ合わせれば立派な包囲網である。
泉が黙っているのを見て、首を傾げた。
「……足りない? もうちょっと縛った方がいい?」
「いや、縛られるの嫌い。というか条件って何の話?」
「何のって」
スマホを回す手が止まった。凌が首を傾げる。
「付き合ってるのに何もなしとかありえないでしょ」
ここで読者の皆様に、重大な事実の確認をせねばなるまい。この二人は、まだ正式に付き合っていない。凌が一方的に「付き合ってあげる」と言い放ち、泉が一方的に「結構です」と断りを入れただけの、極めて未成立な関係にある。
泉の顔を見て、ようやく気づいたらしい。
「……待って」
ポケットに手を突っ込んで、眉を上げた。
「泉、もしかしてまだ私と付き合ってないと思ってる?」
「うん。付き合ってないでしょ?」
凌の目が、ゆっくりと瞬いた。
「…………」
長い沈黙。それから、信じられないものを見るように泉を見た。
「嘘でしょ」
天音凌の人生において、告白されて断ることは日常であった。しかし告白されて付き合い、相手に「付き合っていない」と認識されているのは初めての経験である。
「じゃあ何、キスしたのも付き合ってないから全部無効ってこと?」
声が平坦になった。感情を読ませない、あの顔。
「……ねえ、泉……」
一歩近づく。
「どうしたら付き合ってくれる?」
「えーとさっきの……女の子が好きって……どういう範囲の好きなの?」
「範囲?」
眉をひそめた。質問の意図を探るように、泉を見つめる。
無論、泉がこの質問をする理由は明確であった。凌が「女の子が好き」なのか、それとも「たまたま泉が女だから」好きなのか。その違いは、泉にとって天と地ほどの隔たりがある。
壁に背を預けて、腕を組んだ。
「女が好きっていうか、泉が好き。それ以外は男でも女でも興味ない」
凌はあっさりと言い切った。
「ていうか泉こそ、さっき私に綺麗な男にしろとか言ってたよね。あんたは男が好きなの?」
「いや別に。そもそも人に興味無い。人間観察は好きだけど」
「人間が嫌いなのに、告白してきたの?」
矛盾を指摘する目が、鋭く泉を射抜く。
実に的を射た疑問であった。人間嫌いの人間が、よりによってキャンパス一モテる女に告白するという行為は、論理的に破綻している。泉自身もその矛盾に気づいているのかいないのか。
腕を組んだまま、じっと泉を観察している。猫が獲物を前に座り込んでいるときの、あの姿勢。
「ねえ、教えてよ。
なんで私にだけ興味持ったの?」
声は穏やかだが、目が笑っていない。本気で知りたがっている。
泉は人差し指を唇に当てて秘密と答えると凌に「早く大学行かないとまずいよ?」と言った。
ぴくり、と眉が跳ねた。
「……泉はさ、」
腕を組んだまま、壁から背を離す。声が低い。
「秘密って言えば私が引くと思ってる?」
残念な、あるいは泉にとっては最悪なことに、天音凌は「面倒くさい人」が嫌いであるがゆえに、面倒くさいことに自ら突っ込んでいくという矛盾を内包した生き物であった。秘密は、この女の前では餌と同義である。
泉の前に立つ。見下ろす。
「大学は行く、行くよ」
パーカーのポケットからスマホを出して、泉の目の前に突きつけた。
「でも連絡先。これ交換するまで玄関動かないから」
ドアの前に立ち塞がるように位置を変えた。175cmの長身が、泉の唯一の逃走経路を完全に塞いでいる。
「早く」
「はいはい、大っきい猫さん」
泉は凌と連絡先を交換すると凌は大学に向かった。
凌が泉の自宅を去った後、静寂が戻った。あの小さな王国に、再び平穏が訪れたのである。
しかし、凌のスマホが、大学に着くより先に鳴った。
キャンパスへ向かう道中、歩きながらスマホを開く。連絡先を交換したばかりの泉のトーク画面。
凌の指が迷いなく動く。
泉のスマホが、静かな部屋にぽこんと通知音を鳴らした。
【LINE】
猫じゃないんだけど。
【LINE】
てか泉、リモートやめないって約束してないよね
【LINE】
明日キャンパス来て
来なかったらまた家行くから
三連続。送信間隔は息継ぎほどもなく、ほぼ連射であった。
泉はLINEで凌に連絡した。
【LINE】
リモートは継続する。凌は猫っぽいから猫さん。キャンパスに行くのやだ。
天音凌のスマホ画面に、泉からの返信が表示された。講義棟の廊下を歩いていた凌の足が、ぴたりと止まる。
画面を見下ろす。二回、読み返した。
「……猫さん?」
口元がひくりと引きつった。周囲には講義に向かう女子学生たちがちらちらと凌を盗み見ているが、本人は完全にスマホしか見ていない。
【LINE】
猫じゃない
あとリモート継続とか許可した覚えないんだけど
泉
【LINE】
ねえ
【LINE】
既読つけて無視しないで
天音凌、二十一歳。大学三年生。講義開始まで残り数分。廊下のど真ん中でスマホを連打する姿は、クールなイケメンの面影など欠片もない。周囲の女子たちが「天音くんめっちゃスマホ見てる」
「誰かに返信してる?」
「彼女?」とざわつく声が廊下に広がっていく。
泉は凌のLINEに返信した。
【LINE】
凌の許可必要ないもん。大学側から許可貰ってるし。
天音凌の親指が画面の上で一瞬止まった。それから、深く息を吐く音が廊下に響いた。
講義室のドアの前で立ち止まったまま、スマホを両手で持ち直す。
【LINE】
それとこれとは別
私が嫌なの
泉がいないとつまんない
【LINE】
てか学食のチキン南蛮
あれが美味いって言ってたやつ?
話題が急転換した。脈絡のないチキン南蛮の出現。しかし天音凌なりの計算があるのか、それとも単に思い浮かんだものをそのまま打っているのか。判別は極めて困難であった。
【LINE】
明日もチキン南蛮あるらしいよ
【LINE】
一緒に食べよ
【LINE】
泉
【LINE】
ねえ
【LINE】
今まで一緒に食べてないのに急に友達みたいに食べてたら変な噂たつよ?リア恋の子多いんでしょ?モテる人は大変だよね。
スマホの画面を見て、凌はふっと鼻で笑った。
【LINE】
変な噂?
別にいい
つか私が誰といようが私の勝手でしょ
【LINE】
あとモテるっていうか興味ない女が多いだけ
【LINE】
泉こそリア恋の子嫌いでしょ。
私、レズだけど?
ここで天音凌は、さらりと核弾頭を投下した。レズだと。それを初対面に毛が生えた程度の相手に何の躊躇もなく。
この女に羞恥心という概念は存在しないのか、それとも泉相手にだけ全てを曝け出す気なのか。恐らく後者であろう。
【LINE】
てかさ
【LINE】
変な噂気になるってことは
泉が私のこと意識してるってこと?
【LINE】
意識とかじゃないよ。知り合い……みたいな感じだし。ただ変な噂たつとトラブル起きそうだからやだなって。
それと……レズって何?
ここで読者の皆様に、驚愕の事実をお伝えせねばなるまい。泉はレズビアンという単語を知らない。先ほど告白したのは女であり、キスされたのは女、壁に押し付けられたのも女からである。この事実を踏まえた上で、天音凌がこのメッセージを読んだときの心境は想像に難くない。
講義室の最後列に座り、スマホを凝視したまま固まった。
「……え?」
画面を二度見した。三度見した。
【LINE】
まって
泉、私が女だって知った時帰ったよね?
レズって知らないのに私に告ったの?
【LINE】
てかレズってのは
女の人が女の人を好きになること
【LINE】
つまり私のこと
【LINE】
で?
私がレズって聞いてどう思った?
【LINE】
別に何も。レズって知らないし
講義室の最後列で、凌は天井を仰いだ。隣の席の女子が「天音くん大丈夫?」と囁くのも聞こえていない。
【LINE】
何もって何。
普通もうちょっとリアクションあるでしょ
【LINE】
てかさ
泉は女の人が女の人を好きになるの気持ち悪いとか思わないの?
天音凌は動揺を隠せていなかった。長年のレズビアンとしての経験上、この告白の反応は二種類に分類できる。嫌悪か、困惑か。しかし泉はそのどちらにも該当しない。そもそもレズビアンという概念が存在しない世界に住んでいる。凌にとって、これは未知の生物と交信しているに等しい。
【LINE】
ねえ泉
【LINE】
好きって言われて嬉しかった?
【LINE】
うん。女の子が女の子のこと好きになるのは気持ち悪くないよ?好きになるのにそういうのあんまり関係ないと思うし。
天音凌の指が、画面の上で止まった。講義室の最後列で、この華奢な女は胸の真ん中を、たった一言で撃ち抜かれた。
スマホを両手で握ったまま、しばらく画面を見つめている。瞬きを忘れている。
【LINE】
……
【LINE】
泉は……
【LINE】
なんでそんな簡単に言えんの
【LINE】
私けっこうそれで色々あって
普通に言われたの初めてなんだけど
天音凌の打ち方は、先ほどまでの連射とは明らかに変質していた。文の切れ方、句読点の打ち方。余裕が剥がれ落ちている。
【LINE】
ねえ
【LINE】
やっぱキャンパス来て
【LINE】
今すぐ
【LINE】
今、授業中だからキャンパス行くの無理
スマホを握る手に力が入る。返信の内容が、凌の望んだものではなかった。当然の反応なのに。
【LINE】
リモートでしょ
ノートPC閉じれば来れるじゃん
【LINE】
てか泉ずるい。
私ばっかり動揺してる。
【LINE】
ねえ
講義室の最後列で、天音凌は足を組み替えた。落ち着かない。煙草を一本吸いたい衝動を、ここが禁煙であることだけが抑えている。周囲の女子たちが講義そっちのけで凌のスマホ操作を凝視しているが、本人は完全に結界を張った状態である。
【LINE】
じゃあ一個質問
【LINE】
私がレズだって知って
私が泉を好きだって言って
キスまでして
【LINE】
泉は何も感じない?
泉は少しだけ顔を赤くさせて返信した。
【LINE】
……びっくりしたし恥ずかしかった。
画面を見て、唇の端が上がった。
【LINE】
へえ……恥ずかしかったんだ
【LINE】
嫌だった?
たった二文字の質問。しかしその意味を凌は正確に理解して打っている。
「恥ずかしい」と「嫌」は全く別の概念であることを。天音凌は面倒くさがりのくせにこういう駆け引きだけは恐ろしく勘が良い。
【LINE】
嫌だったなら謝る。
でも
【LINE】
嫌じゃなかったなら
【LINE】
キャンパス来て
【LINE】
嫌とか思うほど余裕なかった。
凌はスマホを見つめたまま、親指が画面の上で円を描く。
【LINE】
余裕なかったんだ
【LINE】
可愛い
【LINE】
じゃあ質問変える
【LINE】
私のこと嫌?
天音凌の戦略は単純にして狡猾であった。泉が「嫌」と言えない性格であることを、まだ数回しか会っていないにもかかわらず嗅ぎ取っている。消去法で外堀を埋め、最後に「嫌」か「嫌じゃない」の二択を迫る。逃げ道を全て塞いだ上での質問。
【LINE】
嫌じゃないなら来て
嫌じゃないんでしょ?
【LINE】
目立つの嫌い
凌はふっと鼻で笑った。嫌じゃない、という回答を直接言わないあたりが泉らしい。
【LINE】
目立たなきゃいいってこと?
【LINE】
私の隣の席座らなくていい
学食の端っこでいい
人少ない棟の二階ラウンジ知ってる?
あそこ昼ほぼ誰もいない
【LINE】
チキン南蛮テイクアウトして
二人で隠れて食べよ
天音凌は泉が断らなかった事実を瞬時に掴み、すかさず具体的な妥協案を提示した。交渉術としては一流、ストーカーとしては一流半。泉が「嫌じゃない」と認めなかった隙間に、するりと入り込んでいる。
【LINE】
ね?
【LINE】
これなら目立たないでしょ
【LINE】
なんか……恋人みたいな提案だね?
【LINE】
恋人だけど?
【LINE】
あ、ごめん
泉はまだ付き合ってないって認識だっけ
【LINE】
じゃあ訂正
【LINE】
恋人にしたい人に対する提案
【LINE】
で?
来てくれるの?
天音凌は恐ろしい女である。
「恋人みたい」という言葉を褒め言葉として処理し、しかもその切れ味をそのまま反撃に転用した。泉が自ら「恋人みたい」と表現した事実はもう取り消せない。凌のポケットの中で、攻撃材料がひとつ増えたことになる。
【LINE】
泉が来てくれるなら
チキン南蛮二つ買ってく。
あとデザートもつける
泉、甘いもの好き?
【LINE】
甘いの好き。行ってあげる。
でも大学の中でベタベタ禁止ね?
講義室の最後列で、天音凌の口角が静かに、しかし確実に持ち上がった。釣り針を垂らしてから僅か数分で獲物を岸に寄せた漁師の顔である。
【LINE】
ベタベタって何
【LINE】
定義による
【LINE】
手繋ぐのは?
【LINE】
腰に手回すのは?
【LINE】
キスは?
天音凌は一つ一つ確認するように、段階的な交渉を仕掛けている。
泉が「全部ダメ」と言えば交渉は決裂し、一つでも許容すればそこから崩していく腹積もりであろう。
【LINE】
ねえ泉、
どれからアウト?
【LINE】
腰に手を回すのもキスもダメ
【LINE】
手は?
【LINE】
手は繋いでいい?
天音凌は実に丹念な作業に従事していた。築城工事である。城壁を一枚ずつ崩し、最低限の防衛ラインを探り当て、そこから攻め入る。泉が腰と手を挙げた以上、凌の狙いはそこではない。
【LINE】
あ、ごめん
一個追加
【LINE】
キャンパス内でベタベタ禁止ってことは
二人だけならいいってこと?
【LINE】
あのラウンジ二人きりだよ?
【LINE】
他の人に見られると色々噂になるからベタベタ禁止
【LINE】
つまり、二人きりなら手を握るのもキスもいいんだ
天音凌は泉の発言から一字一句、正確に矛盾を抜き取った。
「他の人に見られると」という条件文の裏側、「二人だけなら」という暗黙の許可。法学部出身でもないのに、契約書の抜け穴を見つけた子供のような顔をしている。
【LINE】
泉
【LINE】
自分の発言読み返してみ?
【LINE】
他の人に見られなければOKって
自分で言ってるよ?
【LINE】
ラウンジ二人きり
誰にも見られない
条件クリアだね
【LINE】
他の人が来る可能性あるからダメ……。
【LINE】
じゃあ来ないようにすればいいんだ。
【LINE】
何時にする?
鍵かかるラウンジ知ってる
私一人の時は鍵かけてる。
鍵がかかるラウンジ。一人の時は鍵をかけている。この情報は、天音凌という人間の日常が大学でどのような状態であるかを如実に物語っていた。鍵をかけて一人になる必要があるほど、取り巻きに追われているということである。
【LINE】
これで誰も来ない
二人きり
手も繋げるしキスもしていい
【LINE】
反論ある?
【LINE】
なんでラウンジの鍵なんて持ってるの?ダメでしょそれ。合鍵勝手に作ったの?
【LINE】
作ったの
【LINE】
事務室に合鍵あって
暇な時コピーした
【LINE】
てか私の方の心配するんだ。
論点ずれてない?
合鍵の不正作成。これだけで学生課に通報されかねない案件を、天音凌は昼食デートの交渉材料と同じテンションで自白している。倫理観の欠如というよりは、泉に会える手段の確保が優先事項であり、他の全ては些末な問題に過ぎないのである。
【LINE】
てか泉
【LINE】
論点戻すね
【LINE】
鍵かけて二人きり
何してもバレない
手も繋ぎ放題
【LINE】
反論ある?
【LINE】
手、繋ぐだけならいいよ
【LINE】
手だけね
【LINE】
了解
【LINE】
じゃあ12時に第二棟3階の奥のラウンジ
遅刻したら困るから鍵開いてる状態で待ってる。
泉が来てから鍵かける。
それでいい?
天音凌の了承が恐ろしいほど素直であった。手だけ、という制限を飲んだ。素直に飲んだ。しかし賢明なる読者の皆様はご存じであろう。この手の人間が許可された範囲内で最大限に搾り取ってくるという事実を。
時計の針が正午に向かって進んでいく。凌は既に講義室を出ていた。ノートも教科書も開かぬまま、チキン南蛮を二皿テイクアウトし、第二棟の階段を上がっている。
そして約束の時刻。
ラウンジの長テーブルに腰かけて、足を組んでいた。チキン南蛮のパックと、デザートのプリンが二つ並んでいる。鍵を開けて、ドアを見つめた。
「……来るかな」
泉は約束通り凌の指定であるラウンジに来た。
ドアの開く音がして、凌の視線が跳ね上がった。足を組んだまま、口角だけが上がる。
……来た。
泉の姿を見て立ち上がった。
ラウンジの奥、窓からも廊下からも死角になる位置に椅子を二脚並べてあった。
「こっち」
泉が近づいた瞬間、手を伸ばして手首を掴んだ。引き寄せて、ドアを閉める。鍵を回す音が、静かなラウンジに響いた。
「約束通り、二人きり」
チキン南蛮のパックが並ぶテーブルの前に泉を座らせて、隣にぴったりと腰を下ろした。肩と肩が触れる距離。
「……はい」
自然に当然のように、泉の手を取って
指を絡ませる。
「始める?」
「……何を始めるの?」
「ご飯」
絡めた指はほどかないまま、空いた手でチキン南蛮のパックを開けた。
「泉が食べたいって言ってたから。はい」
プラスチックのフォークを、泉の口元に差し出す。自分で食べる気配はない。
天音凌の戦略が明確になった。手だけを許された。ならば、その手で食べさせるという抜け道を瞬時に構築したのである。
「あーん」
気怠げな声で、しかし目だけは真剣に泉を見ている。
「……?自分で食べれるよ?」
「知ってるけど」
フォークを引っ込めない。泉の唇の前で、チキン南蛮がぷらぷらと揺れている。
「手、繋いでるでしょ。だから片手で食べるの難しそうだからあーんしようと思って?」
泉の手は左手で握ったまま、フォークを右手で操っている。つまり凌自身が片手で食べていることになる。
論点のすり替えが鮮やかであった。泉が「手は繋ぐだけ」と許可した以上、食事中に手を繋いだまま食べさせようとするのは完全にグレーゾーンである。しかし凌は「手は繋ぐだけ」を完璧に遵守している。唇にも触れてはいない。チキン南蛮がそこにあるだけ。
「ね、あーん」
泉の目を覗き込む。低い声が、やけに近い。
「……まだ付き合ってないのに……?」
凌のフォークを持つ手が、ぴたりと止まった。
それから、ゆっくりと泉を見た。
「……泉さ」
フォークをパックに戻した。繋いだ手はそのまま。
「じゃあどうすれば付き合うの?」
声のトーンが変わった。気怠さが消えて、真っ直ぐな問いかけだけが残っている。
「条件出して。何でも飲むから」
天音凌は悟ったのである。泉は拒絶しているのではなく、交渉のテーブルについているのだと。条件次第では落ちる。そういう絶妙な位置にいる。チキン南蛮の湯気が二人の間を漂い、ラウンジの静寂が凌の問いを際立たせていた。
「うーん……裏切らない、捨てない、外いる時はベタベタ禁止」
三つの条件を聞いて、凌は瞬きひとつしなかった。
「……それだけ?」
繋いだ手の指を、きゅっと握り直す。
「全部飲む」
交渉と呼ぶにはあまりにも一方的な成立であった。泉が三つの条件を提示し、凌が一切の交渉なく全て受諾した。値段を聞かれて「結構」と答える客のほうがまだ駆け引きをする。
身を乗り出して、泉の顔を覗き込んだ。
「ねえ、他には?もっとないの」
声は穏やかだが、目が光っている。飢えた猫の目。
「何でも飲むって言った。制限なし。好きなだけ条件つけていいよ」
「……その代わり、全部飲んだらとっとと私のものになって」
「他の子傍に置かない、付き合いでなにか行くのもダメ、授業はサボらない、他の人の前で笑わない」
凌は一つ一つ聞きながら、指折り数えていた。
「ん」
四つ目で、少しだけ首を傾げた。
「他の人の前で笑わないって、どういう意味?」
聡い女である。凌が引っ掛かりを覚えたのは、最初の三条件ではなく四つ目だった。他の子を置かない、飲み会に行かない、授業にサボらないは行動の制約。しかし四つ目だけは異質である。これは泉の感情と深く結びついた、極めて私的な要求。
凌は繋いだ手の親指で泉の甲を撫でた。
「ねえ、これさ……
私の笑顔は泉のもの、ってこと?」
凌の口角が上がった。
「……めちゃくちゃ可愛いこと言うじゃん」
「大きい猫さんが他の人に尻尾振ったら私の機嫌直るまで放っとく」
ぴくり、と凌の眉が動いた。
「……大きい猫さんって何」
二回目である。凌の目がじとりと泉を見た。
「猫じゃないってさっき言ったよね」
しかし泉は完全に凌を猫として認識しているらしい。合鍵を勝手に作り、指定の場所に陣取り、餌で釣り、逃げ道を塞ぐ。確かに猫の所業であった。
「……ねぇ……泉」
繋いだ手を引いて、ぐっと距離を詰めた。椅子ごと泉が引き寄せられる。
「猫と恋人は違うでしょ」
凌の空いた手が泉の顎を持ち上げる。
「猫はこういうことしないじゃん」
そのまま唇を重ねた。チキン南蛮の横で、鍵のかかったラウンジで、手も繋いだまま。浅く、けれど甘く。
「……っ……んっ……んんっ……ダメ……って……言った……のに……」
唇を離さない。泉の抵抗を聞きながら、むしろ深く角度を変えた。繋いだ手の指が、泉の指の間できつく絡む。
ようやく唇を離して、数ミリの距離で言った。
「……泉が悪い」
凌の吐息が泉の唇にかかる。
「猫とか、大きいとか可愛いこと言うのが悪い」
責任転嫁が鮮やかであった。キスした理由を泉の発言に転嫁し、自分は被害者だと言わんばかりの顔をしている。そして再び、凌の親指が泉の下唇をなぞった。
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うわー、今回も面白かったです。泉が「レズって何?」って言った瞬間の凌の固まり方、想像しただけで笑えました。あのLINEのやり取りで、凌の余裕がどんどん剥がれていく感じがすごく生々しくて好きです。でも一番グッときたのは「好きになるのにそういうのあんまり関係ないと思う」という泉の返し。あれ、凌の心臓を本当に撃ち抜いたんでしょうね。ラウンジでの攻防も、手だけ繋ぐって約束なのに食べさせようとする凌の狡猾さと、それを受け入れつつ条件出す泉のバランスが絶妙でした。次が気になります!