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桟敷席では、お咲の兄、佐吉が頭を下げ続けていた。
「ま、まさか、男爵様のお屋敷に妹がお世話になっているなんて!」
至らないどころか、子供なんて使い物にならないだろうと、佐吉は恐縮しきる。
お偉いさん達の相手が面倒、芳子もまだ昼を済ませていないということで、男爵夫婦は、月子達の席へ移動して来ていた。
そうして、男爵は、妹が世話になっていると挨拶に訪れた佐吉に、頭を下げられているのだった。
そんな兄の脇で、お咲は、お握りをほお張っている。
「お咲!女中なんだろ!米を食べさせて頂いている礼を言わねぇか!」
さっきから、黙々とお握りを頬張っているお咲に、使用人の分をわきまえろと佐吉は叱りつけた。
「いやいや、お咲のお兄さん。あれだけ唄った後だよ?体力を使っているはずだ。ひょろひょろされても困るからねぇ。お咲には、たんと食べさせてやりなさい」
男爵は、にこやかに佐吉へ言った。
「そうそう!大人の私でも、クタクタですもの。お咲ちゃんなら、相当のものだと思うわ」
芳子も頷き、お握りに手を伸ばす。
「あっ!芳子!最後のお握り!」
「あら?京一さんお食事まだでしたの?」
「いやね、あのニギニギーって唄を聞いたら、無性にお握りが食べたくなってねぇ」
「ほーんと、あの唄といい、桃太郎の唄といい、お咲ちゃんの唄は楽しいわー」
お握り片手に、大役を果たせたと芳子も和みきっている。
そんな、緩やかでのんびりした空気な合わせるかのように、緊張しきっている佐吉へ男爵は、すべて心得ているとばかりにお咲のことは心配しなくても良いとなだめにかかった。
「そ、そんな!滅相もない!女中と言っても、結局、子供のお咲の面倒を見てもらうことになってしまう……おれが、奉公先でもっと一人前だったら……男爵様!申し訳ありません!」
佐吉は、ひたすら詫び続けた。
「兄ちゃん!お咲ちゃんと、唄ったんだよ!」
お咲は、やりきったのだと言いたげに兄を見る。
「お咲!お前なぁ、母ちゃんの唄に、変な唄に、唄っただけだろうがぁ?!学生さんの発表会だって、兄ちゃん聞いてたのに。お前が出てきてびっくりしたぞ!」
「お咲も、びっくりしたよ!兄ちゃんがいるんだもん!」
今まで見せたことのないような、のびのびとしたお咲がいた。
やっぱり、家族と会えて一緒にいれることから素顔に戻ったのだろうと、周りの皆は、言い争っている二人に目を細めた。
佐吉は、それからすぐ、一緒に来ている奉公先の仲間が待っているからと、階下の升席、自分の席へ戻って行った。
どうやら、二代目の声かけで、付き合いもあるからと勤めている店の主人に言われ、奉公人達とやって来たらしい。
まさか、里にいるはずのお咲と出会うとは夢にも思っておらず……。
佐吉は、最後まで、申し訳ないとお咲の事を詫びつつ、兄らしく心配しつつ、去って行った。
「だが、これでお咲もひとりじゃない。お兄さんに会いに行けばいい」
男爵も、芳子も、うんうんと頷いている。
「……でも……お咲、月子様の女中だから……」
兄に女中だろうがと叱られたのが堪えたのか、お咲は、月子の顔色を伺っている。
月子は、遠慮しているその姿に、そして、自分が原因になってしまったと、ドキリとした。
いや、正しくは、西条家で住人達の顔色を伺いながら暮らしていた自身の姿が被さったのだ。
同じ立場には、合わせたくないと思った月子は、
「お咲ちゃん、帝都の街はあまり知らないでしょ?女中さんなら一人でお買い物しなきゃいけない!だから、私と一緒にお兄さんの所へも行ってみましょう?街の事を覚えるためにね?」
少し、無理があったかと思いつつも、月子は、とっさに言っていた。
当然、お咲を女中として仕込むつもりは更々ない。女中になりたがっているお咲のことだ、ここで、女中という言葉を使えば、二つ返事で了解するはず。
「……一人で買い物……」
お咲は、お握りをかぶりつくのを止め、考え込んだが、すぐに、
「女中だから!お咲、街覚える!」
と、元気に言った。
「そう。えらいね。えらいお咲ちゃんを、お兄さんにも見てもらおうね」
月子は、ホッとしつつ、お咲には人の顔色を見て暮らすことなどさせたくない、折角、兄という家族がいるのだ、佐吉の仕事の邪魔にならない程度に、会わせてやらなければと思った。
自分が受けてきたような苦労は、お咲には必要ない。そう心の底から、ふつふつと沸き起こって来る感情を表に出して。
そんな月子の様子に、男爵夫婦も、何かを感じ取ったようで、そうだそうだと、頷いた。
そこへ……。
「桃太郎の兄ちゃん!!」
「桃太郎、やっとくれっ!!」
という掛け声と共に、わあ!と歓声が起こった。
舞台に、バイオリンを構える中村が立っている。
どうやら、中村の出番のようなのだが、さんざん、お咲の伴奏で顔を売っている。
観客は、また、始まると期待満々で中村を見ていた。
中村も、観客席から向けられている、誤解のような期待を、どうすればと、困り果てているようだった。