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「……栞。私の命を使って、空を閉じなさい」
脳内に響いたのは、あの日、水槽と共に消えたはずの母・栞奈の、透き通るような声だった。
それは記憶の残響ではない。母がパンドラのメインフレームの一部だった頃
密かに衛星ネットワークの深層に隠していた「母性」という名のバックアップ・プログラムだった。
(お母さん……?)
声は出ない。
けれど、私の心は母の波長と重なった。
窓の外、夜空の彼方で、政府の軍事衛星が不気味な紫色の輝きを放ち始める。
あれが「最終審判」。
一度パルスが放たれれば、パンドラの適合者だった日本中の人々の脳は、過負荷で焼き切れる。
「栞、……何をしてるの!早く逃げなさい!もうすぐこのタワーも、衛星からの逆流で爆発するわ!」
真由美が半狂乱になって叫ぶ。
だが、九条さんが私の肩をしっかりと抱き寄せた。
「……行かなくていい、栞さん。君がやろうとしていることが、僕にはわかる。僕の右目に残った『鍵』を、君の喉に繋いでくれ」
九条さんは自らの右目のデバイスを引き剥がし
剥き出しになった光ファイバーの端子を、私の喉の火傷の痕に押し当てた。
激痛が走る。
けれど、それ以上に温かい、九条さんのこれまでの「想い」が血流となって流れ込んできた。
『お姉ちゃん、僕も手伝う!』
蓮が壊れかけのコンソールに飛びつき、母の遺したプログラムのバイパスを繋ぐ。
結衣が背後で銃を構え、迫りくる政府の追っ手を食い止める。
美波、結衣、蓮、九条さん、そして母。
独りぼっちで喉を焼かれたあの日から、10年。
私の周りには、こんなにも多くの「音」があった。
(……お母さん。…力を貸して)
私は、血を吐く覚悟で、人生で最も深い息を吸い込んだ。
九条さんの脳、蓮の技術、そして母の遺言。
それらすべてを「栞」という一つの楽器で束ね、宇宙へ向かって放つ。
「——あ、…ぁ、……あああああああああああああ!!!!」
それは歌ではなかった。
それは、10年分の沈黙を破り、愛する人々を守るために絞り出した、魂の「叫び」だった。
私の喉から放たれた目に見えない「真実の波形」は
東京タワーの巨大なアンテナを介し、大気圏を突き抜けて軍事衛星へと直撃した。
パルスが放たれる直前、衛星のシステムが私の声によって「上書き」されていく。
破壊の命令が、慈愛のコードに書き換えられていく。
紫色の光が、ゆっくりと、優しい白銀の光へと変わった。
「……嘘…っ、衛星が浄化されていく……?」
真由美が呆然と空を見上げた。
白銀の光は、雪のように静かに、深夜の東京へと降り注いだ。
それは脳を焼く光ではなく、人々の心に埋め込まれたパンドラの種を、眠らせ、消し去るための「鎮魂の光」だった。
空から降り注ぐ光の粒子。
私は、力尽きて九条さんの腕の中に倒れ込んだ。
喉からは、もう何も聞こえない。
けれど、私の耳には、初めて聞く「静寂」が心地よく響いていた。