偉央に押さえ付けられて、絶望的な気持ちでいた結葉の耳に、チャイムの音が聴こえて来た。
訪問者は扉が閉まり切っていないことに気付いてくれるだろうか。
その音を聞いた瞬間そんなことを期待してしまった結葉だ。
もしもに備えて玄関扉に靴べらを挟んでオートロックが作動しないようにしていたのは、いざという時ロックを外す手間なく逃げられるように、という意味ももちろんあった。
けれど、それよりも心の片隅。
もしもの時には想ちゃんが助けに来てくれるかも知れない、と期待していたことを否定しきれない。
(ここに来る事、何も言わなかったくせに勝手過ぎるよね。ごめんね、想ちゃん)
でも、今は――。
どうか今だけは……。チャイムを鳴らしたのが想ちゃんであって欲しい、と有り得ないことを願う自分を許して欲しい。
不安で押しつぶされそうな気持ちを都合のいい思い込みで鼓舞すると、結葉はギュッと奥歯を噛み締めた。
今までの結葉なら、偉央に縋り付くようにされたら、きっと流されていたと思う。
偉央との関係を何とか修復したいと願っていた頃には、結葉だって彼との子供を心の底から望んでいたから。
もし数ヶ月前に今と同じことを言われていたならば、結葉の心は動かされていただろう。
だけど……あんなに望んだはずの言葉が、不思議なくらいちっとも嬉しくないと思ってしまった。
そればかりか、〝何故偉央さんはいまになってそんな馬鹿なことを言って私を困らせるの?〟と思って。
もちろん、子供は今でもすごくすごく欲しい結葉だ。
人並みに「お母さん」になることにだって憧れているし、山波家で純子を見ていたら、やっぱり母親になるのっていいなという思いが強くなった。
自分の両親にしてもそうだけれど、ゆくゆくは結葉も温かな家庭を築いて、美味しいご飯を作ったりしながら、家族の幸せを守りたいと痛感させられて――。
だけどその家庭は偉央とでは築けない、と嫌というほど実感してしまった。
偉央のことはもちろん気の毒だと思う。
自分がいなくなってこんなに彼がやつれてしまうだなんて思ってもみなかった。
ひどいことを沢山されたけれど、一時は情を通わせた相手だ。
元気になって欲しいと心の底から願っている。
でも――。
もしもそのために自分が必要だというのなら、申し訳ないけれどその望みを叶えてあげることは出来ないと、結葉は痛烈に思った。
「偉央さんっ! お願い、離して! 私、みんなが待ってる家に帰りたいのっ!」
気がついたら自分でもびっくりするぐらいハッキリと、偉央を拒絶する言葉が出ていた。
***
チャイムを鳴らして、中の様子に神経を研ぎ澄ませていた想の耳に、結葉の「想ちゃん、助けてっ」という声が聞こえてきた。
それは気のせいかと思うくらい微かな声だったけれど、想は結葉の声を決して聞き漏らさない。
結葉が想に助けを求めてきたのはこれで二度目だ。
旦那に監禁されていた結葉が電話で助けを求めて来た一度目とは違って、今回は結葉の声音が――物理的には聞こえにくい状況であったにも関わらず――とても力強く感じられてしまう。
その声に後押しされたみたいに勢いよく扉を押し開けたと同時、奥の方から「私、みんなが待ってる家に帰りたいのっ!」という結葉の声が聞こえてきた。
想は、その声の凜とした響きに、思わず気圧されて立ち止まってしまっていた。
「みんな」と言われただけで別に「想ちゃん」と呼ばれたわけではなかったのに、結葉が言った〝みんな〟には間違いなく自分も入っていると確信した。
「結葉っ!」
想は結葉の声に呼応したように半ば叫ぶ調子で幼馴染みの名を呼ばわって、迷いなく扉の内側へ足を踏み出した。
見えはしないけれど、状況から鑑みるに、結葉がいま対峙している相手は御庄偉央に違いない。
あんなに旦那に対して怯えた目をしていた結葉が、いまみたいな毅然とした声を出せたんだとしたら――。
自分たち家族と暮らす中で、結葉が少しずつかも知れないけれど、本来の彼女らしさを取り戻していたんだと実感できた想である。
想の知っている三つ年下の小林(御庄)結葉という女の子は、強く出られると流されやすい優柔不断なところも持っていたけれど、〝ここ〟という譲れない部分では絶対に引かない芯の強さを兼ね備えた女性だった。
嫌なことは嫌だとちゃんと言える、そんな娘だったから。
***
結葉が明確に自分に逆らう態度を示したことに、偉央はショックを隠せなかった。
いま、彼女は確かに我が家に帰って来ているはずなのに、一体どこへ帰りたいと言うんだろう?
そう思って虚ろな目で結葉を見下ろしたら、玄関扉がバン!と開く音がして、「結葉っ!」と言う声が家中に響き渡った。
あの忌々しい声の主は、姿を見なくても分かる。
結葉の幼馴染みの山波想だ。
結葉の名を呼び捨てにしていい男は夫である自分だけだと思うのに、どうしてあの男はたかだか幼馴染みの分際で、偉央の愛しい妻の名を馴れ馴れしく呼び捨てにするのだろうか。
そう思うのに――。
それを一緒になって咎めるべきはずの結葉自身が、その声を聞くなりパッと目を輝かせるとか。
有り得ないではないか。
目の前にいるはずの自分からいとも容易く視線をそらして声の主を探そうとする結葉のことが、偉央は心の底から憎らしく思えてしまう。
憎らしいのに愛しくて、心の底から大好きだと思えば思うほど、腹立たしいくらいに忌まわしく呪わしい。
余りにそちらに気を取られすぎて、どうしてオートロックのはずの玄関が開けられたのかとか、そんな基礎的なことにさえ、偉央は頭が回らなかった。
「――結葉」
――ねぇ結葉。お願いだからもう一度僕の方を見て?
そう思って呼びかけたのに、結葉の意識は完全に想にとらわれてしまっているらしい。
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