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次の日──
AはLに呼び出され、まだ外が暗い早朝五時にベッドから体を起こした。
自分の着替えをするよりも先に、Aは隣のベッドへと視線を向ける。掛け布団がずり落ちて、Bの肩がむき出しになっていた。
「……」
布団をそっと胸元まで引き上げると、Bの表情がかすかに和らいだ気がする。そのまま、Aは思わず手を伸ばし、髪を撫でようとして──
──寸前で止めた。
Bはもう、大人だ──子供じゃない。
ここに来たばかりの頃は、“唯一の”弟みたいで、可愛がっていたけれど、今は違う。
同じ部屋にいても、同じ時間を過ごしても、もう“そういう関係”ではない。
そっと手を下ろし、Aは椅子の背もたれにかけていたシャツを取って、腕を通す。
部屋のドアを開けると、空気が少し冷たい。廊下はまだ薄暗く、窓の外では朝焼けに照らされた庭が、沈んでいる。
Aは足音を殺して階段を降りた。
食堂の方からは、かすかな人の気配。厨房では既に朝食の準備が始まっている。パンを焼く匂い、食器のぶつかる音──けれど、Aはそちらへは向かわなかった。
朝食は要らない。
食欲はなかった。
食堂とは真逆の方へ進むと、職員室の扉をそっと開けた。
まだ薄暗い部屋の片隅──机の上で死んだような姿勢で伏している人物がいた。
「……ロロ先生、おはようございます」
Aが声をかけると、潰れていた先生の顔が、むに……と持ち上がった。
「……ん、んにゃ……」
眠たげな目が細く開く。くしゃくしゃの寝癖に、よだれの跡が少しついている。
「あ……A、おはよう……あれ? まだ五時じゃ? 今日って……あれ……?」
ぱちぱちと目を瞬かせながら、ロロ先生は半分夢のまま、上体を起こす。
Aは小さく笑った。
「先生、机の上で寝ると、首痛くなりますよ」
「ん……うん、ごめんね……それより、どうしたの? こんな朝早く」
「門の鍵、借りに来ました。ちょっと、外に出たくて」
そう言って差し出された手を、ロロ先生はじっと見つめた。
「そうかぁ……」
呟くようにそう言ってから、引き出しを探る。
がちゃ、と小さな鍵の束を取り出すと、彼はそれを握りしめたまま、再び眠気に負けそうに首をふらふらと揺らした。
「……ちゃんと、18時までに、かえってこいよぉ……」
「もちろん」
そう思ったときには、もう門の鍵は手の中にあった。
やった。──今日の先生は、余裕だった。
ロロ先生は、ワイミーズハウスの“門番”。
正規の役職ではないけれど、彼が鍵を持っている限り、この施設の子供たちが勝手に外へ出ることはできない。
いつもなら「ダメだ」とか「本当に行きたいのか」とか、あの人なりに必死に引き止めてきたはずなのに。今日はすんなり鍵を渡してくれた。拍子抜けするほどあっさりと。
それは、かつて「自分のせいで出ていった子が戻らなかった」──そんな“過去の失態”を、ずっと気にしているからだった。
普段のロロ先生なら、いくらAでもそう簡単には通さない。だが今日の彼は、夢と現の狭間で、いつになくへにゃへにゃだったからか、すぐに鍵を渡してくれた。
その後──Aは玄関へ向かい、靴を履く。
──行くか。
扉を開けると、朝の冷たい空気が、頬を刺す。
五月だっていうのに、イギリスの朝は寒い。
門の前まで歩き、厚い鉄製の鍵を差し込み、ぎ、と鈍い音を立てて、重たい門がわずかに開いた。
その隙間から、外へ一歩踏み出す。
そして──
「……」
進行方向に、目を向ける。
「……あっ」
また、いた。
Aの足がぴたりと止まる。
ほんの数メートル先の歩道。昨日と同じ、黒いロングコートに身を包み、両手をポケットに突っ込んだまま──若い男性が、そこにいた。
Aは眉を顰め、距離を測る。逃げられないほど近くもなければ、すぐに襲いかかってくるほどの構えでもない。
──ただ、立っている。
「……なに?」
Aは恐る恐る歩を進めた。
目をそらさず、様子を窺いながら──男の横を、通り過ぎる。
男は微動だにしなかった。
ただ、まっすぐにAを見ていた。目が合っている。睨むでも、笑うでもない。ただ“視ている”──妙に生々しい感覚。
(……)
Aの身体がぴたりと止まった。
ほんの一瞬だった。
振り返ってしまった。
男は──まだ、そこにいた。
逃げろ。
Aは全身をバネにして、走り出した。
「はっ、はっ……!」
背後からは追ってくる気配はない。
けれど、確かに感じる。あの視線が、背中に焼きついている。遠ざかっているはずなのに、ずっと張り付いているような、奇妙な気配。
「……気持ち悪い……っ」
そのままAは、振り返ることなく、ヴォクスホロウへと向かった──
──ヴォクスホロウの施設が見えてきた頃には、呼吸も整い、表情も平静を装える程度には落ち着いていた。
白い廊下を進み、いつものルートで──第六実験室へ向かう。扉を開けると、そこには、以前と変わらぬ光景があった。
モニターの光に照らされ、椅子の上に膝を抱えるようにして座る──Lの姿。
Aは、ほんの一瞬だけ足を止めてから、声をかけた。
「……おはよう、L」
Lはゆっくりと顔を上げると、いつも通りの無表情で、ぺこりと小さく頭を下げた。
「おはようございます」
挨拶を交わした直後──
「──朝早くから、すみませんね、A」
Aの背後から、穏やかな声が差し込む。
振り返ると、そこにはワタリが立っていた。いつもと変わらぬ、落ち着いた佇まい。
「いや、いいよ。大体この時間に起きてるし」
Aがそう返すと、ワタリはほっとしたように小さく頷いた。
「朝食は、食べてきましたか?食堂、まだ開いてなかったでしょう?」
「うん。まあね。……食べてないよ」
そう答えると、ワタリの眉がわずかに下がる。責めるわけでも、急かすわけでもない。ただ、純粋に心配している顔だった。
「でしたら……」
ワタリは少しだけ声を和らげた。
「パンケーキなら、すぐに用意できますが。いかがですか?」
その言葉に、Aは思わず顔を上げた。
「え?ワイミーさんの手作り?」
間髪入れずに返してしまった自分に、Aは少しだけ照れたように続ける。
「それなら、食べたいな」
ワタリは小さく笑みを浮かべた。
「では、すぐに準備いたします」
そう言うと、踵を返し、部屋を出ていく。足音はすぐに廊下の向こうへと溶けていった。
「……ワイミーさんのパンケーキか」
Aは小さく呟く。
ふと、胸の奥があたたかくなるのを感じた。
「懐かしいなあ……」
ワイミーズハウスに来たばかりの頃、僕とワイミーさんの二人だけだったから、何度か振る舞ってくれた──あのパンケーキ。
Aは自然と表情を緩め、Lの隣へと腰を下ろした。いつもの距離。さっきまで張り付いていた不安が、少しだけ薄れていく。
「いいなあ、Lは」
Aは何気なく言った。
「毎日、ワイミーさんのお菓子食べられるんだもん」
Lは机の上に置かれたコーヒーに角砂糖を落としながら答える。
「ワタリの手作りはなかなかのものですよ。正直、パティシエに転職しても良かったレベルです」
「ふふ、そうだね」
「特に、ワタリ特製のプリンは絶品です」
「そうなの?」
「ええ」
「……いいな、食べてみたいな」
「でしたら……この事件が解決した暁には──」
少しだけ声を落とす。
「一緒に、ワイミーさんのプリンを食べましょう」
約束、というほど大げさな言い方ではなかった。けれど、不思議と胸に残る言葉。
Aは小さく頷く。
「うん──」
その返事を合図にするように、Aは姿勢を正す。緩んでいた思考を、仕事の位置へと戻す。
「──で、噂の件だけど」
「はい」
「ごめん、特定出来なかった……」
Lはポトポトとコーヒーに角砂糖を追加していく。
「仕方ないですね」
即座にそう返した。責める響きは、どこにもない。
「噂というものは、ああ見えて非常に厄介です。発信源が一つとは限りませんし、途中で話は変わり、当初の形を失っていきます」
経験に裏打ちされた口調。
Lは続ける。
「特定しようとすればするほど、かえって輪郭が曖昧になる。そういう性質のものです」
Aは小さく息を吐いた。
肩にのしかかっていた重さが、わずかに軽くなる。
「今は噂よりも、もっと確実な情報を得る必要があります──」
指先がキーボードを叩く。モニターに表示されたのは、見慣れない通信。
「なに?これ……」
「昨日のうちに、エラルド=コイル本人との接触を試みました」
Aは思わず聞き返す。
「……えっ!コイルに?」
Lは頷いた。
「“依頼人”という名目で──《Lの所在を特定するよう、依頼を持ちかけた者が誰なのか》直接、本人に聞いています」
Aは明らかに面食らったように、言葉を探す。
「……ちょっと待ってよ。前に……『エラルド=コイルに依頼したら、それは“負け”だ』って言ってたじゃないか」
視線を向けると、Lは腑に落ちなさそうに人差し指を咥えた。
「……状況が変わりました」
それだけの一言に、Aは声を失う。
「今は、もう“勝ち負け”を言っていられる段階ではありません」
Aはごくりと唾をのむ。
異例とも呼べるLの判断が、“非常事態”を物語っている。あのLが、自分の“ルール”を破ってでも動いた。
──それほどまでに、事態は《深刻》だということ。
Lは立ち上がり、近くのテーブルから一枚の書類を手に取ると、Aの前へと差し出した。
「──見てください」
Aは受け取り、目を走らせた。
書類の上部には──
《INVOICE/Eraldo Coil》
と印字されている。
その中央に、手書きのような太いサインと、印刷された金額の項目があった。
─────
決定的な証拠と共に依頼人を明かした場合の報酬金:£100,000,000(1億ポンド)
支払い方法:前払い
追加報酬の可能性:あり(状況に応じて協議)
─────
個人に支払われる調査報酬としては、常識の外にある額だった。
「……随分とまあ……」
小さく息を吐く。
「露骨だな」
「はい」
Aの顔が、ゆっくりと歪んだ。引き攣るというより──呆れに近い表情。
コイルはわかっているのだ。この情報が、Lにとって極めて有利であることを。
だからこそ──金額が跳ね上がっている。
情報そのものの価値ではない。“Lがそれを欲している度合い”に、値札がつけられている。
「足元見られました……」
「……ここまで吹っかけてくるあたり、逆に清々しいけど」
もはや、“依頼”という体裁すら怪しい。
「法外請求もいいところです」
Lは、そっとAの手からその書類を摘み取ると、何のためらいも見せず、背後へとひらりと放った。紙はふわりと宙を舞い、床に落ちる音すらも聞こえない。
「……今朝、ワタリが払ってくれました」
そう言ってLは椅子を引き、再び腰を下ろした。
椅子のキャスターが床を滑り……投げ捨てた1億ポンドの書類を轢いていく。
「……」
Aは無言のまま、それを見つめ、内心で思った。
──たかが噂の出処に、これだけ?
そう、口に出しかけて、やめた。
“たかが”じゃない。
──Lが“そこまでして”知りたかった名前なのだ。
Lの勝ち負けを超えるほどの名前──どれだけの価値があるか。
逆に、1億ポンドじゃ安く感じるほどだ。
Aは押し黙りながら、Lに轢かれたままのたった一枚の紙に視線を落とした。
それはもう、単なる支払い済みの書類であり、このあと明かされる「真実」の代償だった。
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