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時の流れは、
森の中では穏やかだった。
暑さが薄れ、
木々が少しずつ深い緑へ変わっていく。
夏の終わり――
秋の匂いが、
朝の冷たい空気にまぎれ始める頃。
エリオットとイチは、
変わらぬ小さな日々を
静かに積み重ねていた。
イチは
エリオットのそばで
森の歩き方を学んだ。
静かな獣道の見分け方、
弱った足音の聴き分け、
木の実や薬草の種類――
エリオットはひとつひとつ
ことばを添えて教える。
イチは声にできない代わりに
手を動かし、
身体で覚えた。
ときどき、
エリオットが咳き込むと
イチは
水を汲みに走り、
そっと差し出した。
表情はなくても、
“看病”
のかたちは
少しずつ
彼女の中に根づいていった。
その手つきは
とてもぎこちなく、
けれど
不思議なほど丁寧だった。
しかし――
日々は優しいままではいられなかった。
ある夜、
エリオットは
激しい熱にうなされた。
呼吸は荒く、
額は燃えるように熱い。
イチは
肩をさすり、
水で濡らした布を
そっと押し当てる。
けれど、
それだけでは足りなかった。
「……大丈夫……
夜は、出ちゃ……だめだよ……」
かすれる声で
エリオットは言った。
イチは
その言葉を聞きながらも、
水の器に映る
エリオットの苦しそうな顔を見つめた。
助けたい
その想いだけが
彼女の中を締めつける。
触れれば壊れてしまいそうな
か細い身体。
息は熱を含み、
ときどき途切れそうに揺れている。
イチは
静かに立ち上がった。
玄関で
草履を手に取る。
夜は危ない。
出てはいけない。
エリオットは
そう言ったはずだった。
けれど
その忠告は
助けたい
という気持ちの前に
ただ薄く消えていった。
イチは
扉を開け、
暗い森へと走り出した。
月が
かすかに照らす森。
足もとには
夜露で濡れた葉が落ち、
野の匂いが
重く漂う。
どれだけ探しただろう。
風が冷え、
肌が痺れる。
それでも
イチは
必死に薬草を探した。
薬草を手にしたころ――
空が、
わずかに白んでいた。
歩き出したイチの耳に
重い足音
がひっそりと近づく。
イチは木の陰へ身を寄せ、呼吸を潜めた。
闇の奥から数人の人影が現れる。
彼らは、
厚い布と
金属の板のようなものを
身にまとっていた。
月明かりを受けて
その表面が鈍く光る。
それが
防具なのか、
武器なのか、
イチには
判別がつかなかった。
ただ、みな同じ服装で、
いくつも足音を響かせながら
一方向へ進んでいた。
足取りは
重く、
その音は
土を踏みしめる獣よりも
はっきりとしている。
(――誰?)
イチの中に
はっきりとした言葉はない。
ただ、
ここには似つかわしくない
“何か”
がいるという違和感だけが
胸の奥に沈んだ。
なぜ、森に……?
その理由を
考える術は持っていない。
数人は
何かを探すように
森を歩いていく。
イチは
目をそらすことなく
じっと見つめる。
だれも
こちらに気づかないまま――
影たちは
森の奥へ消えていった。
イチは
しばらく立ち尽くした。
恐怖も、
不安も、
まだ
自分の中に形を持たない。
ただ、
不思議だ
それだけが
はっきりと残った。
そして
再び歩き出す。
目指すのは
一つだけ。
エリオットの――
家。
薬草を手に、
足を速める。
家が見えた。
扉が
半分開いている。
イチは
ゆっくり扉を押し開けた。
赤。
目に飛び込んだのは
冷たくなった血の色。
ベッドの上――
エリオットが
静かに横たわっていた。
抵抗した様子はない。
血が
床へ落ち、
乾いて暗く染みつく。
イチの手から
薬草が
ぱらりと零れ落ちた。
音を立てて
床へ散る。
それでも
イチの顔は
何も動かない。
ただ
歩み寄り、
細い腕で
エリオットの身体を抱きかかえる。
温度がない。
いつも感じた
弱くてあたたかい息が
どこにもない。
――なぜ?
その問いだけが
頭の中で
ひどく静かに響いた。
悲しい
という言葉を知らない。
苦しい
という感情も
まだ胸にはない。
ただ、
どうすればいいかわからない。
その事実だけが
イチの中に
はっきりと残った。