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第7話「元婚約者からの忠告」
正午。
昼休みになった瞬間、神崎レオンが立ち上がった。
「相沢さん」
「はい」
「行きましょう」
「どこへ?」
「二人で話せるところへ」
営業企画部の何人かがこちらを見る。
相沢は少し困った。
男二人で「二人で話せるところへ」というのは、妙に意味深だった。
森野リリカもこちらを見ている。
「何の話ですか?」
森野が聞いた。
「君には関係ない」
神崎が答える。
「あります」
「ないよ」
「あります」
「何で?」
森野が詰まる。
耳が髪の中で動いた。
ぴく。
神崎はそれを見た。
相沢も見た。
森野は両手で髪を押さえた。
「……行ってくればいいじゃないですか」
「じゃあ行ってくる」
相沢が言う。
「別に止めてません」
「怒ってる?」
「怒ってません」
ぴく。
「怒ってる」
「早く行ってください!」
相沢と神崎は会社を出た。
近くの喫茶店へ入る。
向かい合って座った。
神崎はコーヒー。
相沢もコーヒー。
注文が届くまで二人とも黙っていた。
妙に気まずい。
相沢が先に言った。
「それで、話って?」
神崎は少し考えた。
「リリカのことです」
やはり。
「婚約を断られたこと?」
「それもあります」
「怒ってる?」
「いいえ」
神崎は笑った。
「六十八年前にも一度断られてますから」
「慣れてるんだ」
「慣れたくはないですけど」
コーヒーが運ばれてきた。
神崎は砂糖を二つ入れた。
相沢は意外だった。
「甘党?」
「はい」
「エルフって甘いもの好きなの?」
神崎が笑う。
「それ、リリカにも聞いたでしょう」
「分かる?」
「人間はみんな同じ質問をします」
「そうなんだ」
「エルフは何を食べるんですか。魔法は使えるんですか。森に住んでるんですか」
「全部聞いた」
「でしょうね」
少し空気が柔らかくなった。
しかし神崎の表情が変わった。
「相沢さん」
「はい」
「リリカのこと、好きですか?」
相沢はコーヒーを飲みかけて止まった。
「いきなりだね」
「時間がもったいないので」
「エルフなのに?」
神崎が笑った。
「それ、面白いですね」
「だって長生きなんだろ?」
「だからこそです」
神崎は相沢を見る。
「長く生きていると、遠回しな話が面倒になる」
「森野さんはかなり遠回しだけど」
「あれは昔からです」
「昔から?」
「好きな人の前では特に」
相沢の手が止まった。
神崎はコーヒーを飲む。
「今の、どういう意味?」
「そのままです」
「森野さんの好きな人、知ってるの?」
「分かります」
「誰?」
「本人に聞いてください」
「教えてくれない」
「耳に聞けばいいでしょう」
「それやると怒られる」
「当然です」
神崎は笑った。
相沢は少し考えた。
「神崎さん」
「はい」
「森野さんのこと、まだ好き?」
神崎はすぐ答えなかった。
窓の外を見る。
「好きですよ」
相沢の胸が重くなる。
「今でも?」
「はい」
「じゃあ何で俺にこんな話するの?」
「好きだからです」
「分からない」
神崎はしばらく黙った。
「私は昔、勘違いしていました」
「何を?」
「リリカを幸せにできるのは自分だと」
神崎はカップを置いた。
「同じエルフ。同じ里。同じ家柄。同じ時間を生きられる。だから私と結婚するのが一番自然だと思っていた」
「それで婚約?」
「はい」
「森野さんは逃げた」
「見事に」
神崎は苦笑した。
「朝起きたらいませんでした」
「突然?」
「置き手紙が一枚」
「何て?」
「『自分の人生は自分で決めます』」
相沢は笑った。
「森野さんらしい」
「でしょう?」
神崎も笑った。
「それから六十八年です」
「ずっと会わなかった?」
「何度か会いました」
「そのたびに戻ってきてって?」
「最初の二十年くらいは」
「長いな」
「エルフですから」
時間の感覚が違う。
神崎は少し真剣な顔になった。
「でも今回、分かりました」
「何が?」
「リリカは戻らない」
相沢は黙る。
「それだけじゃない」
神崎が続ける。
「もう別の場所を見つけている」
「会社?」
「たぶん」
「満員電車と経費精算がある会社だよ」
「それでもです」
相沢はコーヒーを飲んだ。
「で、俺に何を言いたいの?」
神崎は相沢をまっすぐ見る。
「中途半端に近づかないでください」
空気が変わった。
「どういう意味?」
「リリカはあなたが好きです」
相沢は固まった。
神崎は淡々と続ける。
「かなり」
「本人から聞いた?」
「聞いてません」
「じゃあ」
「耳を見れば分かります」
「やっぱり?」
「分かりやすすぎます」
相沢は何も言えなかった。
「だから聞きます」
神崎が言う。
「あなたはリリカをどう思っていますか?」
相沢はすぐには答えられなかった。
好きか。
もちろん気になる。
一緒にいると楽しい。
他の男といると面白くない。
神崎と結婚すると聞いたときは嫌だった。
断ったと聞いたときは嬉しかった。
答えはほとんど出ている。
しかし。
「分からない」
相沢は言った。
神崎の目が少し厳しくなった。
「何が?」
「森野さんはエルフだ」
「はい」
「百四十三歳」
「はい」
「俺は三十一」
「知っています」
「寿命が違う」
神崎は黙る。
「俺が八十になっても、森野さんは」
「今とほとんど変わらないでしょうね」
「俺が死んだあとも?」
「生きます」
相沢はコーヒーを見る。
「それを考えると」
神崎が言った。
「だから中途半端に近づくな、と言っているんです」
相沢は顔を上げる。
神崎は真剣だった。
「人間とエルフでは流れる時間が違う」
「分かってる」
「あなたにとって五十年は人生の大半です」
「うん」
「私たちにとっては違う」
神崎は窓の外を見る。
「リリカはあなたが死んだあとも、何百年も生きるかもしれない」
相沢は何も言えなかった。
「だから」
神崎が言う。
「もし遊びなら、今のうちに離れてください」
「遊びじゃない」
相沢は即答した。
自分でも驚いた。
神崎がこちらを見る。
「なら?」
「……」
答えられない。
神崎は時計を見る。
「戻りましょう」
会計を済ませる。
会社へ戻る途中。
神崎が言った。
「一つだけ」
「何?」
「リリカは昔から臆病です」
「そう?」
「ものすごく」
「全然見えない」
「自分のことになると駄目なんです」
神崎は笑った。
「だから、たぶん自分からは言いません」
「何を?」
神崎は答えなかった。
会社へ戻った。
森野がすぐこちらを見る。
「遅かったですね」
「そう?」
「四十七分です」
「測ってたの?」
「たまたま時計を見ただけです」
ぴく。
相沢は笑った。
「何ですか?」
「いや」
「何を話したんですか?」
「秘密」
「何で?」
「男同士の話」
「怪しい」
神崎が席へ戻る。
森野は相沢のところに残った。
「私の話しました?」
「した」
「何を?」
「いろいろ」
「レオン!」
神崎が振り返る。
「何?」
「何を話したの?」
「秘密」
「二人とも最低です」
森野は自分の席へ戻った。
午後。
相沢は仕事をしながら何度も森野を見た。
百四十三歳。
エルフ。
自分より百十二歳年上。
それなのに。
今はただの女性に見える。
パソコンに向かっている。
時々髪を直す。
電話に出る。
資料を作る。
お菓子を食べる。
眠そうにあくびする。
普通だ。
あまりにも普通だった。
午後五時五十分。
神崎が先に帰った。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまです」
相沢と森野は残業。
二人きりではない。
まだ数人いる。
午後六時二十分。
一人帰る。
六時四十分。
また一人。
午後七時。
営業企画部には二人だけになった。
森野が伸びをする。
「疲れました」
「百四十三歳でも疲れるんだ」
「その言い方やめてください」
「ごめん」
森野は相沢を見る。
「今日」
「うん」
「レオンと何を話したんですか?」
「気になる?」
「気になります」
「耳は?」
「関係ありません」
相沢は椅子を回して森野を見る。
「森野さん」
「はい」
「人間とエルフが付き合ったことってある?」
森野の動きが止まった。
「……ありますよ」
「結婚も?」
「あります」
「うまくいく?」
森野は少し考えた。
「人によります」
「寿命違うよね」
森野の表情が変わった。
「レオン、その話しました?」
「少し」
「そうですか」
森野はパソコンの画面を見る。
「やっぱり」
「何?」
「だから嫌だったんです」
「何が?」
「人間に正体を知られるの」
相沢は黙る。
森野が続ける。
「最初は普通なんです」
「うん」
「でもエルフの寿命を知ると、人間は考え始めます」
「何を?」
「自分が先に死ぬこと」
森野の声は静かだった。
「それで離れていく人もいます」
「森野さんも経験ある?」
「……あります」
耳は動かなかった。
本当だ。
「昔?」
「昔です」
「好きだった人?」
森野は答えない。
「人間?」
「はい」
「その人は?」
「もう亡くなりました」
相沢は何も言えなくなった。
森野は少し笑う。
「そんな顔しないでください」
「ごめん」
「七十年以上前です」
「七十年」
「人間には長いでしょう?」
「長いよ」
「私にも長いです」
森野は窓の外を見る。
「エルフだからって、時間を感じないわけじゃありません」
「うん」
「悲しいものは悲しいです」
しばらく沈黙。
「だから」
森野が言った。
「人間を好きになるのは、もうやめようと思っていました」
相沢の心臓が強く鳴った。
「思っていました?」
森野が固まる。
「……」
相沢は立ち上がった。
森野を見る。
「過去形?」
「言葉のあやです」
ぴく。
耳が動いた。
「嘘」
「動いてません」
ぴく。
「動いた」
「見えないでしょう!」
「分かるようになった」
「何ですか、それ」
相沢は森野の机の前へ行く。
「森野さん」
「はい」
「好きな人って」
森野が立ち上がる。
「帰ります」
「待って」
「仕事終わりました」
「逃げるなよ」
「逃げてません」
「六十八年前も逃げたんだろ?」
「それとこれとは関係ありません!」
森野がバッグを持つ。
相沢も帰り支度をする。
二人で会社を出た。
夜の道。
並んで歩く。
いつもの駅までの道。
相沢は考えていた。
神崎の言葉。
中途半端に近づくな。
確かにそうだ。
森野は自分よりずっと長く生きる。
自分が死んでも。
森野は生きる。
それでも。
「森野さん」
「はい」
「手」
「え?」
相沢は森野の手を握った。
森野が完全に止まった。
「……」
「……」
髪の中。
耳が激しく動く。
ぴくぴくぴくぴく。
「相沢さん」
「はい」
「何してるんですか」
「手をつないでる」
「それは分かります」
「嫌?」
森野は答えない。
「嫌なら離す」
相沢が手を緩める。
その瞬間。
森野が握り返した。
「……嫌とは言ってません」
相沢は笑った。
「耳は?」
「今その話したら怒ります」
二人は歩いた。
手をつないだまま。
三十メートル。
五十メートル。
百メートル。
誰も何も言わない。
駅が見えてくる。
森野が小さな声で言った。
「相沢さん」
「何?」
「人間ですよね」
「そうだよ」
「三十一歳」
「うん」
「たぶん私より先に死にます」
「そうだろうね」
森野の手に少し力が入る。
「怖くないんですか?」
相沢は考えた。
「怖いよ」
「じゃあ」
「でも」
相沢は森野を見る。
「まだ起きてないことを理由に、今をやめるのも変だろ」
森野は黙った。
耳が動く。
今度はゆっくりだった。
「それ」
「何?」
「七十年前にも言われました」
相沢の足が止まった。
「え?」
森野も止まる。
「昔、好きだった人に」
「同じこと?」
「ほとんど」
「それはちょっと嫌だな」
森野が笑った。
「何でですか」
「オリジナリティがない」
「そこですか?」
「その人、どんな人?」
「言いません」
「気になる」
「昔の話です」
「俺より格好よかった?」
「どうでしょう」
「仕事できた?」
「普通です」
「背は?」
「相沢さんより少し高かったです」
「負けた」
森野が笑う。
その笑顔を見て。
相沢は思った。
七十年前。
この人は別の誰かと。
こうして歩いたことがあるのだ。
そしてその人はもういない。
森野だけが残った。
その重さを。
自分はまだ理解できない。
駅に着いた。
手を離す。
森野が少し寂しそうな顔をした。
「じゃあ明日」
相沢が言う。
「はい」
森野が改札へ向かう。
三歩。
四歩。
相沢は呼び止めた。
「森野さん」
振り返る。
「何ですか?」
「明日も一緒に帰ろう」
森野の耳が動いた。
ぴく。
「監視ですから」
「そうだった」
「仕方なくです」
ぴく。
「はいはい」
「何ですか、その返事」
「何でもない」
森野は笑った。
その夜。
午後十一時十二分。
相沢のスマートフォンにメッセージが届いた。
森野だった。
『今日はありがとうございました』
相沢は返信する。
『何が?』
既読。
しばらくして。
『手』
相沢は少し笑った。
『またつなぐ?』
既読。
一分。
二分。
五分。
返事がない。
十分後。
ようやく来た。
『監視に必要なら』
相沢は声を出して笑った。
『必要です』
すぐ既読。
今度は返信が早かった。
『では仕方ありません』
続けてもう一通。
『おやすみなさい』
相沢も返す。
『おやすみ』
そのころ。
森野リリカは自宅のベッドで。
枕に顔を埋めながら。
両手で耳を押さえていた。
耳が。
いつまでたっても。
動き続けていた。
コメント
1件
「おー、ついに来たか…っていう感じでしたね。神崎が相沢を呼び出して『中途半端に近づくな』って忠告するところ、すごく引き締まってて好きです。エルフと人間の寿命の差に向き合う重さと、それでも手を繋いで帰る二人の距離感が丁寧で。最後の耳が動き続ける描写、めちゃくちゃ可愛かったです。設定の細かさがまた活きてる回でしたね。」