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夕暮れの県道を走る吉田美希のピンクの軽自動車は、まるで彼女の不安を映すように、ぎこちなく進んだ。自宅アパートに向かう道すがら、彼女はハンドルを力いっぱい握りしめ、ルームミラーで何度も何度も後続車両を確認した。黒いセダンの一件が頭から離れず、背筋に冷たいものが走る。交差点で隣の車線に黒い車が並ぶと、心臓が鷲掴みにされたような恐怖が全身を駆け抜けた。
(大丈夫よ、なにを怖がっているのよ)
美希は自分を落ち着けようと心の中でつぶやいたが、声は震えていた。桜貝のネイルが光る指先は、ハンドルに食い込むほど強く、汗で湿っていた。黒いセダンが探偵社の素行調査員だったのかもしれないという恐怖は、彼女の心を締め付ける。だが、それ以上に気にかかるのは、携帯電話に残された非通知の着信だった。あの禍々しい気配を放つ画面が、彼女の頭から離れない。
美希は、迷惑電話対策として携帯電話番号を極力公開しないようにしていた。会社の緊急連絡先には自宅の固定電話番号を登録し、個人情報を守ることに細心の注意を払ってきた。彼女の携帯番号を知る者は限られている。賢治、四島工業株式会社の社長である四島忠信、そして父親と母親だけだ。なのに、なぜ非通知の着信が? あの黒いセダンの女性の深紅の唇と歪んだ笑みが、まるでその着信と繋がっているかのように、彼女の想像を掻き立てる。
(賢治さんの奥さんが…)
賢治の妻、綾野菜月の存在が再び頭をよぎる。美希は彼女の顔を知らないが、賢治が「いつか別れる」と囁くたびに、その影がちらつく。あるいは、四島社長が何か気づいたのか? 手切金として受け取った100万円の約束を破ったことが、すでにバレているのかもしれない。考えれば考えるほど、恐怖の連鎖が止まらない。
夕陽が地平線に沈みかけ、県道の両側に広がる田んぼが赤く染まる。軽自動車のエンジン音は軽快だが、美希の心は重く沈んでいた。ルームミラーに映る自分の顔は、さくらんぼのような唇が青ざめ、疲れと不安で曇っている。彼女はカーラジオをつけ、雑音で頭を紛らわせようとしたが、音楽すら耳に入らない。
交差点で信号待ちをしていると、隣の車線に停まる黒い車のシルエットに、彼女の息が止まった。だが、よく見ればそれはセダンではなく、ただのコンパクトカーだった。安堵と苛立ちが同時にこみ上げ、美希は唇を噛んだ。
(落ち着け、大丈夫!)
彼女は自分を叱咤し、アクセルを踏んで車を進めた。自宅アパートはもうすぐだ。古びた2階建ての建物が、街灯の薄い光に照らされて待っている。だが、そこに帰っても、黒いセダンの影や非通知の着信の恐怖が消えるわけではない。 賢治との関係が、こんな恐怖を生むとは思わなかった。あの廃墟の駐車場での情熱的な時間は、まるで別世界の出来事のようだ。今、彼女の心を支配するのは、罪悪感と恐怖だけ。賢治の「美希しかいないよ」という言葉が、甘い毒のように胸に刺さる。
アパートの駐車場に車を停め、エンジンを切ると、車内は急に静寂に包まれた。美希はショルダーバッグから携帯電話を取り出し、画面を確認する。非通知の着信は1件だけだが、メッセージの通知はない。彼女は電話を握りしめ、受信履歴をじっと見つめた。
(誰なの…本当に、ただの間違い?)
だが、心のどこかで、それが間違いではないと確信していた。黒いセダンの女性の笑み、あの不気味な気配。すべてが、彼女の秘密を暴こうとしているかのようだ。
アパートのエントランスの薄暗い明かりに、吉田美希はわずかな安堵を覚えながら駆け込んだ。心臓はまだ激しく鼓動し、黒いセダンの不気味な笑みと非通知の着信が頭を離れない。郵便受けには、通信販売のカタログが無造作に突っ込まれていた。彼女は面倒くさそうにそれを取り出すと、ハラリと何かが足元に落ちた。
(なに、これ? 黒い?)
それは黒い封筒だった。宛名も切手もなく、ただそこにある。糊づけされていない封筒を、彼女は何気なく開いた。中には、黒い便箋が二つ折りで待っていた。まるで「早く見てくれ」と誘うように。美希の指が震えながら便箋を広げると、そこには金色のペンで一言、『死ね』と書かれていた。
「…!」
悪質な悪戯に顔が青ざめ、彼女は封筒を床に落とした。カサリと乾いた音が、エントランスの静寂を切り裂く。恐怖が全身を駆け巡り、彼女は手摺りにしがみつきながら階段を駆け上がった。
桜貝のネイルが光る指先が震え、3階に着く頃には肩で息をし、動悸と目眩で視界が揺れた。一刻も早く部屋に入らなければ。あの黒い封筒を郵便受けに入れた人物が、まだ近くに潜んでいるかもしれない。
(誰、誰が!)
チカチカと点滅する通路の蛍光灯が、彼女の不安をさらに煽る。部屋のドアの前にたどり着くと、足元に再び黒い影が目に入った。2通目の黒い封筒だった。美希はそれを跨いで部屋に逃げ込もうとしたが、まるで引き寄せられるように手が伸びる。震える指で封を開けると、そこにはまた金色のペンで書かれた一言。
『後ろを見て』
背筋に冷たいものが走り、彼女はゆっくりと振り返った。壁際に、黒い小箱がひっそりと置かれている。喉仏が上下し、耳鳴りが頭を支配する。 (開けてはならない、開けてはならない!) もう一人の自分が警告する声が響くが、彼女の好奇心と恐怖がそれを上回った。
震える手で蓋を開けると、中には全裸で手足がバラバラに捥がれた人形と、黒いカードが入っていた。美希は小さな悲鳴を上げ、膝がガクガクと震えた。恐る恐るカードを指で摘むと、そこにはまた金色のペンで書かれた文字。 『死ね』 「…ひっ!」 彼女はカードを落とし、ドアの鍵を慌てて開けた。部屋に飛び込むと、鍵を二重にかけ、背中でドアを押さえつけるようにして息を整えた。
部屋の暗闇が、まるで彼女の恐怖を吸い込むように静まり返っている。
(誰なの…何なの、これ…)
黒いセダンの女性の深紅の唇、非通知の着信、黒い封筒、バラバラの人形。すべてが繋がっている気がして、彼女の心はパニックに支配されていた。賢治との不倫、四島工業の手切金、綾野菜月の存在。彼女の秘密を知る誰かが、彼女を追い詰めている。
吉田美希は、黒いカードに書かれた金色の『死ね』という文字を手に震えながら見つめていた。ショルダーバッグの中で、携帯電話がけたたましく着信を知らせる。LINE通話ではない。画面には、禍々しい気配を放つ「非通知」の文字。
(……非通知)
彼女の指は、まるで操られるように通話ボタンに伸びていた。着信音が止み、電話の向こうからかすかな息遣いが聞こえる。
「もしもし?」
「…」
「あなた、誰! なんなのこれ!」
沈黙を破り、地の底から響くような女の声がした。
「賢治と別れろ」
美希の心臓が凍りつく。
「なに、意味分かんないんですけど!」
反発するが、声は震えていた。
「賢治と別れろ、別れろ、別れろ、別れろ、別れろ」
女の声は呪文のように繰り返し、機械的で、しかし憎悪に満ちていた。
「ちょっ、なに!」と叫ぶ美希の声をかき消すように、女は不気味に続けた。
「こうなりたい?」
その瞬間、建物の外で車のクラクションが鋭く鳴り響いた。美希は恐る恐る窓に近づき、カーテンの隙間から外を覗いた。そこには、昼間の黒いセダンがアパートの駐車場に停まっている。そこには、白いのっぺりとした顔、黒いワンレングスの長い髪、夜にもかかわらず黒いサングラスをかけた女。
彼女は高く掲げた手で人形の髪を掴み、左右に振っていた。黒いコートのポケットから取り出した右手には、フォールディングナイフが街灯の光を冷たく弾く。
「死ね」
女の唇が動いた瞬間、ナイフが人形の顔に深く突き刺さった。 「ひ、ひいっ!」 美希は悲鳴を上げ、部屋の鍵を落とした。慌てて拾い上げ、震える手で鍵穴に差し込む。ようやくドアを開け、ハイヒールを脱ぐ余裕もなく、四つん這いでリビングに逃げ込んだ。
ルルルル
ルルルル
非通知の着信音が執拗に響き続ける。美希は半狂乱になり、携帯電話を投げつけた。電話はガラステーブルの角に当たり、画面に蜘蛛の巣のようなヒビが入った。それでも、着信音は止まない。
ルルルル
ルルルル
「やめて! 別れる! 別れるから! やめてー!」
美希は非通知の着信音に向かって叫び続けた。涙と恐怖で顔がぐしゃぐしゃになり、さくらんぼのような唇が震える。「もう、別れるからー!」と、まるで命乞いのように叫んだ。
どれほど時間が経ったのか。やっと落ち着きを取り戻した美希は、賢治に電話をかけ、黒いセダン、封筒、人形、ナイフの恐怖を涙ながらに訴えた。だが、賢治の反応は冷たく、あっさりと「別れよう」と言った。賢治は、その女が、如月倫子であることを瞬時に悟った。このままでは、如月倫子は美希にナイフを振り下ろすかもしれない。殺傷事件から自分の存在、不倫が露見することを賢治は恐れ、美希を見捨てた。美希は愕然とし、「嫌だ、別れない!」と縋った。かつての情熱的な囁き、「美希しかいないよ」という言葉が頭をよぎる。だが、賢治は一歩も譲らず、2人の不倫関係は呆気なく終わりを告げた。
数日後
カコーン
綾野の家の離れの和室に、鹿威しの音が静かに響いた。庭の竹筒が水を湛え、ゆっくりと傾く音が、まるで時を刻むように室内に届く。そこには、数枚の書類を手にした湊と佐々木がいた。畳の上で胡座をかいた湊は、口元に薄い笑みを浮かべ、どこか冷ややかな視線を佐々木に向けた。
「それで、どうなったの?」
「賢治さまと吉田美希は別れたようです。」
佐々木の声は淡々と、しかし確信に満ちていた。湊は眉を軽く上げ、興味深そうに尋ねる。
「どうして分かったの?」
「勤務時間中の外出がなくなったと。SDカードにも吉田美希は映っていません。」
「ああ、2人は勤務時間内に会っていたからね。」
湊の声には、どこか嘲るような響きがあった。佐々木は無表情にテーブルに内容証明郵便を置いた。書類の角が、畳の上でわずかに擦れる音がする。
「送付先の住所が違うね。アパートじゃないの?」
「はい。」
「ここは?」
「吉田美希の実家です。」
「実家か。」
「はい。突然、転居したようです。」
湊の目が一瞬鋭く光る。
「僕らに気が付いたの?」
「そうとは言い切れません。」
吉田美希は、黒い封筒、バラバラの人形、非通知の着信に怯え、警察署に相談に駆け込んだ。しかし、実害がないとして被害届は受理されなかった。佐々木がその事実を淡々と伝えると、湊の顔色が一瞬にして変わった。
「どうか、なさいましたか?」
「如月倫子だ。」
「え?」
「如月倫子は、菜月に口紅を送って来た。」
「その口紅ですね。」
「うん。」
如月倫子の名前が、和室の空気を一気に冷たくした。彼女の自己顕示欲は異常なほど強く、まるで自分の存在を誇示するかのように行動する。憶測の域を出ないが、如月倫子が吉田美希を恐怖で追い詰め、転居を強いて賢治との関係を終わらせたのではないか。
湊の頭に、その不気味な笑みが浮かぶ。黒いサングラス、深紅の唇、ナイフを握る手。如月倫子の影は、まるでこの復讐劇の裏に潜む黒幕のようだった。
「厄介な相手だな。」
「如月倫子ですか?」
「うん。」
湊は1枚の書類を手に取り、目を細めた。 「じゃあ、この慰謝料請求は吉田美希の実家に送るんだね。」
「はい。」
「突然、200万円の慰謝料が請求されたら、親御さんはどんな顔をされるのかな。」
湊の声には、冷ややかな好奇心が滲む。佐々木は無表情に頷いた。
「それ相応の不貞行為を働いたのですから、当然の事です。」
「そうだね。」
数週間後、吉田美希は四島工業の子会社に出向が決まった。しかし、その会社は女性社員が働きやすい環境ではなく、過酷な労働条件に耐えきれず、彼女は自主退職を願い出た。彼女の人生は、まるで一瞬にして崩れ落ちたようだった。実家に戻り、慰謝料請求の書類を前に、両親の失望と怒りに耐える日々。さくらんぼのような唇は色を失い、桜貝のネイルは欠けたままだった。
これで、1人目の復讐が終わった。 和室の鹿威しが再びカコーンと鳴る。
湊は書類を畳に置き、静かに立ち上がった。窓の外、庭の木々が夕暮れの風に揺れる。如月倫子の影は、どこかで次の標的を見据えているのかもしれない。佐々木は書類を片付け、無言で湊の背中を見つめた。
吉田美希の転居、退職、賢治との別離。すべては、如月倫子が仕掛けた恐怖の連鎖の結果だったのかもしれない。だが、湊にはそれが報復の終わりではなく、始まりに過ぎないと感じられた。次の書類、次の名前が、すでに彼の頭に浮かんでいる。
カコーン
鹿威しの音が、和室に冷たく響き、静寂の中に消えた。