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「久世先生ご夫婦は、本当に理想的ですね」
学会や院内の集まりで、何度この言葉を聞いただろう。
二十九歳の産婦人科医と、三十四歳の脳神経外科医。同じ大学病院に勤務し、夫の実家は地域病院を経営する医師一族。
外から見れば、たぶん私たちは、文句のつけようがない夫婦だった。少なくとも、あの頃の私はそう見えていると信じていた。
その夜も、関連病院の懇親会で、年配の医師が遼介の肩を叩いた。
「久世先生は将来、親父さんの病院を継ぐんだろう。奥さんが産婦人科を開けば盤石だな」
「まだ先の話です」
謙遜しながら笑った。
仕立てのいい濃紺のスーツ。顔立ちに合う細いフレームの眼鏡。短く切った髪は、硬い毛質を生かして自然に流している。
すべて、私が選んだもの。
研修医だった私が遼介と出会った頃、彼は身なりに無頓着だった。伸びた前髪、傷のある眼鏡、肩幅に合わない白衣。仕事は真面目だったが、人と目を合わせるのが苦手で、会話も続かない。
付き合い始めてから、眼鏡を替え、服を一緒に選び、美容院を予約した。
「せっかく格好いいのに、もったいない」
「千紘がそう思うなら」
彼は照れながら、私の勧めを受け入れた。
結婚する頃には、院内で女性から声を掛けられるほど垢抜けていた。患者の家族から連絡先を渡されたと報告された時も、私は笑っていた。
「断ったんでしょう?」
「もちろん」
「じゃあ問題ないわ」
夫が褒められることを、素直に嬉しいと思っていた。
懇親会の終盤、義父の久世隆一郎が私を呼び止めた。
「千紘さん。銀行の佐伯常務には、きちんと挨拶したのか」
「先ほど、ご挨拶しました」
「名刺を渡しただけでは駄目だ。医者の家に生まれていないと、こういう席の意味が分からないのかな」
周囲に聞こえる声に、笑みを崩さず答える。
「次回の産科病棟再編についても、ご説明しておきました」
「君の勤め先の話ではなく、久世記念病院の将来の話をするんだ」
私が勤務しているのは東央大学医学部附属病院で、久世記念病院ではない。正式に入職の約束をしたこともない。それでも義父は、私がいずれ久世家の病院へ入ることを決定事項として扱っていた。
「お義父さん、その話はまだ――」
「遼介と結婚した以上、無関係ではいられないだろう」
遼介は少し離れた場所で、教授と談笑していた。助けを求めるほどのことではないと、私はまた飲み込んだ。
父が亡くなったのは、私が十二歳、莉央が七歳の時だった。
腹痛を訴えながら仕事を休めず、ようやく受診した時には、病気はかなり進んでいた。母は病室と職場を往復し、私は学校が終わると莉央の手を引いて病院へ通った。
治療の説明を聞いても、子どもの私には何一つ理解できない。ただ、大人たちの口から出る言葉が、少しずつ「治す」から「痛みを取る」へ変わっていくことだけは分かった。
父が亡くなった夜、母は私たちの前で泣かなかった。葬儀を済ませ、役所を回り、翌月には仕事へ戻った。
数年後、母が不正出血を隠して働いていたことを知った。娘二人の学費を優先し、自分の受診を後回しにしていたのだ。
父を救えなかった悔しさと、母のように自分を後回しにする女性を減らしたいという思い。その二つが、私を医学部と産婦人科へ向かわせた。
義父は、その経歴を努力とは呼ばなかった。
白波 灯
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鬼霧宗作
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「母子家庭の子は、上へ行くことに必死になるものだな」
「奨学金を返すために医者になったわけではありません」
「そうむきになるところが、育ちを表すんだよ」
婚約の挨拶で初めて久世家を訪れた日、彼は母が手土産に選んだ菓子を開けもしなかった。
遼介は隣で困ったように笑い、帰り道に言った。
「親父は誰にでもああなんだ。気にしなくていい」
「私に我慢してほしいの?」
「結婚すれば分かってくれるよ」
何を、誰が分かってくれるのか。今思えば、ひどく曖昧な言葉だった。
それでも当時の私は、結婚すればきっと何とかなると信じてしまった。
「久世先生」
呼ばれて振り返ると、先ほど挨拶した銀行の常務が立っていた。
「奥様が久世記念病院へ移られるなら、産科部門の再編も現実味が増しますね。理事長から伺っています」
「私はまだ、何も決めておりません」
「これは失礼しました。てっきり、ご夫婦でお話が進んでいるものと」
常務は気まずそうに笑い、義父の方へ視線を向けた。
私の知らないところで、私の名前と経歴が使われている。
問いただそうとした時には、義父は別の出席者を連れ、こちらへ歩いてきていた。
「千紘さん、こちらは医療法人連盟の――」
「お義父さん。私は久世記念病院へ入ると、お約束していません」
「今、ここで話すことではない」
「私の進路を、私に確認せず話すことでもありません」
義父の眉が動く。
「家族の将来の話だ。遼介の妻なら、少しは立場を考えなさい」
「私の立場は、東央大学病院の産婦人科医です」
声を荒らげたわけではない。それでも近くにいた数人が会話を止めた。
遼介がようやくこちらへ来た。
「どうした?」
「お義父さんが、私の久世記念病院への入職を銀行に話していたみたい」
「親父も期待してるんだよ。今日は場を収めよう」
「私の話なのに?」
「あとで話せばいいだろう」
まただ。
遼介は父親から私を守らない。私が飲み込めば、その場は丸く収まる。そう分かっていて、いつも私に我慢させる。
……夫婦なのに、どうして我慢する役はいつも私なのだろう。
帰宅後、ネクタイを外しながら、ため息をついた。
「親父に、あんな言い方をしなくてもよかっただろう」
「私が悪いの?」
「そうは言ってない。ただ、銀行の人もいたんだ。恥をかかせる必要はなかった」
「私の経歴を勝手に使ったことは?」
「いずれ病院へ入る可能性はあるだろう」
「私は一度も、そう言ってない」
「夫婦なんだから、いつかは話し合うことになる」
話し合う前に、決められていた。
私が黙ると、言い過ぎたと思ったのか、声が和らいだ。
「今日は疲れただろ。先に風呂へ入ってくる」
彼が浴室へ向かう。
テーブルの上に置かれたスマートフォンが光った。
通知の内容は表示されない設定だった。ただ、送り主の名前だけが見えた。
水野真帆。
時刻は深夜零時を過ぎていた。
浴室から水音が聞こえる。
私は画面へ触れなかった。
けれど、親友がこの時間に私の夫へ何を伝えようとしているのか。その答えを知らないまま、以前と同じ妻でいることは、もうできなかった。
コメント
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読み終わりました。第二話、とても引き込まれました。 冒頭の「理想的ですね」という言葉が、そのまま皮肉として効いてくる構成が巧い。千紘さんが夫を「育て」、義父の前でも自分の立場を譲らない強さを見せているのに、肝心の遼介がいつも「あとで話せば」と丸め込もうとする。そのもどかしさが胸に刺さります。 そしてラストの「水野真帆」。深夜の通知だけで物語の空気が一変するこの畳みかけ、憎いですね。次が気になって仕方ないです。