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「わ!」と声をあげてユカリは驚き、声量を下げると共に縮こまる。「……びっくりしたぁ」
唐突に、朝食が並んだ目の前の机の上に魔導書『我が奥義書』が現れたのだった。羊皮紙ではない、艶めく植物性の白い紙で綴じられた冊子が初めからそこにあったかのように鎮座している。魔法少女に変身できるユカリが最初に手に入れた魔導書だ。
同じく温かな湯気と馨しい香り立つ机を囲む旅の仲間たちがさりげなく身じろぎし、朝の静寂に浸された食堂の客たちの訝しむ目線を遮る中、ユカリは禁制品を持ち込んだ密輸業者のように急いで魔導書を合切袋に片付ける。
「何? どういうこと?」鳥の羽根で作った扇のような赤い睫毛を瞬かせたベルニージュに好奇心と猜疑心の眼差しを向けられる。「『我が奥義書』ってユカリから離れた時に移動してくるんじゃなかった? 主人を恋しい忠犬みたいにさ」
「いやあ、そのはずなんだけどね」と呟きながらユカリは合切袋の中に手を突っ込む。この近距離で移動してきたことなど無いのだが、袋の底で異変に触れて理由を察する。慌てて覗き込むと、革を縫い合わせていた縫製が切れ、裂け目がユカリを見つめ返している。「こういうことだったみたい」
そう言って合切袋を持ち上げ、皆に裂け目を見せる。切れ長の眼差しのような亀裂で、魔導書のような薄いものでなければ落ちることはないだろう。つまりいつの間にかどこかで落として、今移動してきたのだ。
「もう一つは大丈夫?」とグリュエーに心配される。今や目に見えない風の相棒ではなく、幼くも元気な肉体のある少女だ。
「うん、そっちはちゃんとある」と言いつつ、そっちを亀裂とは反対の側に移す。ほとんどの魔導書は一人でに戻ってきたりはしない。その魔導書を落とさずに済んだのは幸運が見捨てないでくれただけだ。
『我が奥義書』以外に手に入れた五つの魔導書は五人で一冊ずつ所持している。誰もが鉛のように重く煩わしい責任や重圧を感じている中、使命を持つ魔法少女自身が失くしては笑い話にもならないだろう。
「寒さで鈍った? でも寒いの得意だったよね」とベルニージュが鼻の先を赤くして微笑んだ。
「もうサンヴィアの冬より寒い気がするよ」
そう言ってユカリは菖蒲色の外套を引き寄せ、輝くような黄金色の温かい羹を飲み干し、凍えた魂を癒す。
込み合う食堂の一角で、黄昏時の空に似た紫の瞳をしばたたかせ、真新しい朝の鮮烈な陽光に洗われた目抜き通りを眺めながら、ユカリは旅の仲間たちと共に食事で暖を取っていた。昨夜飛び込むように泊まった宿には食事が付いていなかったので、朝から出かけているのだ。
「クヴラフワの呪いのせいでほとんど夏を感じられなかったのが惜しいよ」
向かいに座るベルニージュは木の匙で卵焼きを撫でている。すると匙の背が触れた表面が泡立ち、黄色が茶色に変じ、香ばしい焦げ目がついていた。
ユカリはその赤い髪の魔法使いと初めて会った時のことを思い出した。その全てを思い出せるわけではないが、あの時も秋で食堂だった。丁度一年が経ったのだ。
「結局前の冬からずっとその外套を着ることになりましたわね」と隣に座るレモニカが思いもかけない幸運を得たかのような声色で言う。「贈った身としては喜ばしい限りですが」
その皿に取り組む所作は無駄がなく、場末の食堂の庶民料理に品がもたらされている。
西国の王女レモニカの言葉に、ユカリは赤みを帯びた顔を綻ばせてはにかんだ。
「贈られた身としてはありがたい限りだよ。こんなに寒い秋は初めてだから」
「ミーチオンに比べればさぞ寒いだろう。サンヴィアまで狩装束だけだったとは信じがたい」
主君たるレモニカを挟んで反対側に座る逞しい女性ソラマリアは呟いた。それはまるで年の離れた妹のやんちゃを咎めるような様子だった。皿は既に空でいつの間にか食べ終えていた。
「グリュエーがいたからね」と言って、ユカリの斜向かいに座るグリュエーが得意そうに胸を張る。
「え? どういうこと?」ユカリには身に覚えがなかった。
「風のグリュエーがずっと一緒にいたでしょ?」とグリュエーが熱い芋を頬張りながら抗議する。「だから他の風や空気の影響が抑えられてたんだよ」
知らなかった。そのような気遣いができる風だったなんて。
ユカリは感心し、突如噎せ、咳き込む。料理が台無しにならないように手で口を覆う猶予があったのは幸いだ。
「ユカリ、大丈夫? そんなに驚いたの?」とグリュエーが引け目を感じたらしい表情で身を乗り出す。
「ううん。違うよ。気配が現れた。北西の方」
ユカリがそう言うと皆が食事を急ぐ。贅沢が出来る旅ではなくなってきたのだ。
「勘定を済ませてくる」ソラマリアが店主の元へ向かう。
首筋を針の先でなぞるような危うい気配だ。ユカリの旅の目的、世の災いの根源とも言える存在、魔導書の気配だった。今度のそれはおおよその位置まで分かる。
かつてガレインの女王は覇業の始まりに巨人たちを率いてハイヴァ地峡を渡ったとされている。それは今や断絶され、堅牢なる封印の魔術ハイヴァ封鎖海峡へと作り変えられていた。その海峡を渡ったユカリたちが最初にたどりついた都市隘路は、運河を通る船から関税を徴収する悪名高き関所の街だ。人と物と金が集まるこの街の豊かさと強さは並び立つ大建築や街を囲む城壁、居並ぶ歩哨の隙の無い装備と精強な眼光からも見て取れる。だからこそ魔導書の情報を得られると期待していたのだが、そのものに遭遇出来たのだ。
ユカリは舌を火傷しながらも南北に延びる目抜き通りに出ると気配の方向に目を向ける。この通りには主に衣料品店が集まっていた。北国には必須であろう艶やかな毛皮の着物や空気を含んで毛羽立った帽子や手袋、底の厚い靴が商われている。魔導書は別の通り、路地裏を通り抜けた先だ。
「あ! 動き出した。それにこの速さはたぶん走ってる。北の方に」
「中心街の辺り?」とベルニージュ。
「そっち方面にだね」
「私はユビスを取りに戻ろうか?」と支払いを終えたソラマリアが提案する。
「そうですね」ユカリは気配に集中しつつも答える。「馬の速さではないですけど、一応、お願いします」
「わたくしもソラマリアと」
ソラマリアとレモニカはユビスを預けた宿へと戻り、ユカリ、ベルニージュ、グリュエーは魔導書の気配を追って路地裏へと飛び込む。昼の光も表通りの喧騒も近寄らない入り組んだ路地にも少なからぬ人々が行き交い、身を包み込むような営みの温もりと肌寒い秋の衣服に潜り込むような空気が揺蕩っていた。
ユカリは魔導書の気配に触れる感覚に集中しつつ、魔導書の逃げる先に回り込めるよう道を選ぶ。あるいは別の大通りに出た方が良いだろうか、と迷う。
「待って!」
その大通りが路地の向こうに見えた時、ユカリはベルニージュとグリュエーの腕をつかんで建物の陰へ引っ張り込む。沈黙を保つよう示し合わせつつ、葉の陰の妖精のように覗き込む。
ユカリの視線の先には、鉄の仮面を付け、黒い衣を纏う集団がいた。救済機構の僧兵、魔導書を仇敵として活動する焚書官だ。その内の一人は焚書官たちを率いる証、炎の角の羊を象った鉄仮面を脇に抱えこんでいる。シグニカの地で一度対峙した第四局首席焚書官アンソルーペだった。波打つ栗色の髪はよく手入れされているが、緑色の瞳は母を見失った子供のようだ。
以前は分厚い鎧と騎馬で襲い掛かってきた第四局だが、今は長衣に身を包んで徒歩だ。
「あいつら?」とベルニージュが覗き込みながら尋ねる。
「ううん。魔導書はもう少し先にいるし、今も離れていく」とユカリは確信を持ってはっきりと答える。
三人は建物の陰から開きっぱなしの扉、積み上げられた木箱の裏へと身を隠しながら移動しつつ、焚書官たちの方へ近づき、狙い澄ますように耳を傾ける。
「ど、ど、どうしましょう? 雫ちゃん!? お祖父ちゃんに怒られます!」首席焚書官アンソルーペが細やかに震える声で訴える。
「落ち着いてください。奪われるのは想定内ですよ、首席」ドロラと呼ばれた焚書官が冷静に、間違いを正すように答える。「位置も概ね把握しています。それに、どんな失敗をしたってケイヴェルノ総長が貴女を叱っているところなんて想像できませんよ」
「そ、そうですよね。さ、さく、作戦上は問題ないですもんね?」とアンソルーペは気を取り直す。
「奪われない方がより良かったですけどね」とドロラは淡々と指摘する。
「ううう」
「とにかく追うのみです。私たちも行きますよ」
ユカリたちも、焚書官たちに見つからないように、焚書官の手を離れた魔導書を裏路地から追いかける。次々に現れる分かれ道を勘で選び、細道に体をねじ込むようにして突き進む。
「ねえ、ばれてでも飛んだ方が――」と言いかけたユカリの目の前で壁が炸裂する。
脇道から飛来した棘球付きの鎚矛が壁に叩きつけられたのだった。悲鳴を押し殺して【笑みを浮かべ】、ユカリは魔法少女に変身すると、ベルニージュを抱えて魔法少女の杖に跨り、屋根の上まで一息に飛翔する。追うように浮上してきたグリュエーは風を纏っている。
「矢に気を付けて!」とユカリが注意した時には既に無数の矢が飛んできて、しかし炎の鳥と意志宿す風に阻まれる。
焚書官の半分は矢を番ってユカリたちの足止めをし、残りは魔導書を追っているのが上空から見えた。
「あれだ!」
ユカリが目算を付けた人物は見た目には土地に根付くありふれた市民に見えたが、怪物にでも追われているかのように必死に走っている。ユカリは獲物に狙いを定めた鷹のように急降下し、逃げる人物の頭上にぴたりと付く。
老いた男だ。髪も髭も真っ白で、枯れ木のような手足を振って走っている。しかしとても老人とは思えない健脚だ。
「止まってください。持っているものを渡してください」
老人はこちらを振り返って見上げるとにやりと笑い、舌を出す。
そして「やーだよ。魔法少女なら力づくで捕まえてみなってね!」と挑発し、けたけたと笑いながら逃げ続ける。
「挑発に乗っちゃ駄目だよ! ユカリ! 落ち着いて!」とベルニージュが大袈裟に言って揶揄う。
「乗らないよ……」
徴収した関税で膨らんだ街の中でも取り分け立派なハーゴ市議事堂、その前の広場まで駆けてきた老人は演説に耳を傾ける市民の群衆にぶつかる。聴衆の耳目を集める政治家らしき男は怒りを握りしめた拳を振ってライゼン大王国に立ち向かうことを主張している。
人ごみに紛れ込むつもりらしい老人の姿をユカリたちはしっかりと目で追う。魔法少女の杖使いも様になったもので細やかな操作で小回りが利く。そうして老人が人々の間から飛び出してくる所へ先回りして降り立った。
「さあ、逃げられませんよ!」とユカリは両腕を広げて立ちはだかる。
「一体何なんだ、お前たちは。私に何の用だ」と老人は息せき切ってしらばっくれた。
老人の声は先ほどと同じはずだが声色が違った。体の内の全てを吐き出してしまいそうなほどに息切れしている。
「貴方が持ち去った物を……」と言いかけてユカリは身を引き、ベルニージュとグリュエー共々後ろへ下がる。人混みを避けて回り込んだ焚書官たちが左右から飛び掛かり、老人を羽交い締めにしてしまった。
首席焚書官アンソルーペとドロラと呼ばれた副官らしき焚書官が老人とユカリたちの間に入る。
「まま魔導書はわた渡しませんよ! まほまほ魔法少女!」とアンソルーペが鎚矛を構えて警告する。
「こんな所で争うつもりはありませんよ」とユカリはさらに一歩退いて示す。
「あなたが白岸の街を滅ぼしたという『街焼き』ですか」とドロラは怖れを抱きつつも困難に立ち向かう決意に満ちた眼差しをユカリに向ける。
「街焼きぃ!?」とユカリは愕然とする。とうとう身に覚えのないあだ名がついてしまった。「ロレナなんて街、聞いたこともないですよ! どこにあるんですか?」
ドロラは鉄仮面の奥からユカリに怪訝な眼差しを向ける。
「マシチナの沿岸領土です」
「大陸南端じゃないですか!」ユカリは驚きつつ呆れる。「ここはガレイン半島、大陸北端ですよ!?」
「しゅ、瞬時に長距離を移動する魔術をつか使えると聞いていますよ?」とアンソルーペが指摘する。
確かに、深奥を利用すれば可能だ。それでも行く先に縁のある人物がいなくてはならず、ユカリにはマシチナの知人なんていない。そもそもユカリが単独で使えるほど簡易な魔術ではない。
「首席、この男は所持していません!」と焚書官の一人が報告すると、アンソルーペたちに人を射殺さんとする眼差しを向けられた。
「まだ触れてもいなかったでしょ?」とユカリは空手を挙げて無実を主張する。戦う意志も無い。今のところ。
ユカリの様子を見てアンソルーペは矛を収め、ドロラに指示し、ドロラは焚書官たちに指示をする。その老人に尋問するようだ。焚書官たちはユカリたちを警戒しつつ老人を連れて行く。ユカリたちはその様子を見守った。もう老人に用はないからだ。
「魔導書はどこ行ったの?」とグリュエーが誰にともなしに尋ねる。
「まだそこにいるよ」とユカリは顎で人混みを指す。
焚書官の大捕り物で演説は中止され、市民たちは不安げな表情で事態の推移を見守っていた。
ユカリは品定めするように群衆を眺め、その内の一人の女を指さす。とても魔法使いの類には見えない常識的な見た目の壮年の女だ。
「貴女でしょう? さっきの老人から受け取りましたよね?」
「ふうん。なるほど、なるほど」と女は不敵な笑みを浮かべ、じろじろと魔法少女を見つめる。「気配もきちんと読み取れるみたいだね。へえ。貴女がねえ」
先ほどの老人に一度追いついた時の第一声と同じ口調だ。
「さっきの人もこの人も、誰かに操られてる?」とユカリはベルニージュの方に顔を寄せて囁く。
「かもね。あるいは憑依か」
「ご名答!」女は嬉しそうに言って賞賛するように拍手する。「魔導書のために無関係な人を傷つけたりしないよね?」
女は懐から一冊の真っ白な本を取り出してひらひらと揺する。が、突如風が巻き起こり、女から本をもぎ取ってグリュエーの手の中に収まった。
「油断したね」と得意げなグリュエーが魔導書を胸に抱え込み、ユカリとベルニージュの後ろへと引っ込んだ。
同時に女は支える杖を失ったかのように地面に膝をつき、慈悲深き者を求めるようにきょろきょろと辺りを見回す。
「え? 何?」と混乱した様子を見せ、怪訝な眼差しを魔法少女に向ける。少なくともその場で最も目立つ格好をしているのがユカリだ。
「大丈夫ですか? 少しお尋ねしたいことがあるのですが」と言ってユカリは女に手を差し出した。
女も手を伸ばす。しかしその手は魔法少女の腰に下げた魔導書へと伸びた。慣れた手つきで革の留め金を外され、『わたしのまほうのほん』もとい『我が奥義書』を奪われる。そして魔法少女の変身が解けた。
「貰いっと」女は嬉しそうに跳ねながら数歩下がる。「油断したね!」
「私からその魔導書を奪うことなどできませんよ」とユカリは冷静に忠告する。
一定の距離を離れれば『我が奥義書』は一人でに戻ってくるのだ。たとえ落としても、奪われても。
「奪い返せるものならやってみて!」
そう言うと女は空中から杖を取り出した。ユカリの頼ってきた、輝かしい色彩と宝飾の魔法少女の杖にそっくりだ。そうして杖に跨って、空気を蓄え、放出する魔法さえも使いこなし、慣れた手付きで宙に浮くと瞬く間に東の空へと飛び去った。
一人で追いかけようとするグリュエーをベルニージュが押し留める。ユカリは屋根の向こうに消える女をただ見送るしかできなかった。『我が奥義書』が戻って来なければ変身できず、便利で頼りになる魔法少女の杖も現れない。
しかし『我が奥義書』は主人の元へ戻って来ない。そして、とうとうユカリの感知できる範囲から、最も慣れ親しんだ魔導書の気配が消えた。