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「おかえりなさい、坪井くん」
そう真衣香が声を出した途端、坪井が物凄い勢いでしゃがみ込んだ。真衣香よりも体勢を低くして、覗き込むように表情を確認し、焦ったように早口で問いかける。
「ど、どうしたの!? なん、で……何かあったの……って、あ! や、八木さんと何かあったとか?」
その慌てた声の中に八木の名前が出て、真衣香は一瞬眉を寄せた。坪井はもちろん真衣香の表情を見逃しはせず「……そっか」と何やら納得したように呟くのだが。
真衣香はすぐに「違うよ」と、強く言い切った。
「坪井くんに、会いたくて来たの」
「…………え?」
「話したいことも聞きたいこともたくさんあるの」
「え、俺……?」
ポカンと、気の抜けたような声で目をパチパチと瞬かせ真衣香を見る。そんな坪井の表情が珍しくて仕方ない。真衣香はそれだけでも、一つ何かを得られたような気になったのだ。
「でも、よかった。坪井くんが女の人と帰ってきたらどうしようかなと思って待ってたから」
ははは、と。何とか笑い声を混じえながら言ったけれど、よかったと言い切っていいのか?
なぜなら、ふわりと風に乗ってお酒とタバコのにおい、そして甘い……きっと女性ものの香水の香り。
それらが鼻をかすめたから。
「な……!?」
ひどく慌てた様子で、座り込む真衣香の膝に手を添えて、坪井は静まり返る住宅街に響く大きな声で否定する。
「そ、そんなことしないって! 俺はお前が好きなんだから!」
真衣香は坪井の言葉に胸を高鳴らせた直後、しかしすぐに冷静になれた。なぜなら。
「でも、襟元」
「え?」
「口紅? ついてるね」
「…………え」
全く気がついていなかったように慌てて、しかし心当たりはあるようで。間違えずに真っ赤な口紅の跡に触れた。
「一緒にいた人を……連れて帰ってこなかった、だけ?」
「いや、これは」
「外で……その、女の人と色々……して、帰ってきた?」
真衣香は沸々と煮えくり返るような怒りと。
そして抱えきれないほどの、まるで夜の闇のように黒い感情を、どうにかしたくて坪井にぶつけた。
「ちょ、ちょっと待って、待って待って違う」
「八木さん言ってた。憂さ晴らしに男は女を抱けるんだって」
「抱け……、だ……、え!? なんの話してるの八木さんと! てか、違う、友達と飲みに行ってた!中学の頃からの友達、男!」
「抱くとか、お前の口から聞くとビビる……」とボソボソ言って視線を逸らしながら真衣香の手を掴んだ坪井だが。
その途端に「つめた!!!」と、また大きな声を響かせ、それから暖めるよう真衣香の手を包み込んでジッと顔を近付けてきた。
「……手冷たいよ! いつからここにいたの? 連絡くれたらすぐに帰ってきたのに」
「あ、電話したよ。メッセージも送ったけど、全然繋がらなかったから」
「は? いや、何も」
坪井はハッとしたように慌てて片方の手だけを真衣香から離し、コートのポケットからスマホを取り出した。
「うっわぁ……」
画面を見ながら、坪井は呆れたように「終わってんな、俺」とギリギリ聞き取れる程度の小さな声でつぶやく。
「ごめん、電源切れてた。昨日充電せずに寝てたから」
「そ、そうだったんだ……じゃあ、その口紅の人と一緒にいたいから電源切ってたわけじゃないんだね」
坪井は「ぐ……っ」と何やら呻いて、触れる手に力が込められた。
それとは反対に小さくなっていく声。
「違う。一緒にいたい人なんて……お前しかいないし、ほんとに、違うから」
「そっか」
「……女も、いるとこに飲みに行ったのは、行ったけど、でも、それだけ。ちょっと油断したけど」
「お前に軽蔑されるようなことはしてないつもりだから……多分」と、声だけでなく、肩を落とし小さくなって見える坪井の姿。
それに、救われていく自分がいる。
(やだな、なにこれ。根掘り葉掘り、嫌な女だ……私。そんな権利ないのに)