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月子は、男爵邸の本館部分の長い廊下を、芋羊羹と茶を乗せた盆を持ち進んでいる。
おそらく、岩崎の様子から書斎に向かったのだろうと梅子に言われ、場所を教えてもらい向かっているのだが、確かにそのようで、すれ違う女中達は、岩崎は書斎にいると言い、部屋の場所も丁寧に教えてくれた。
そして、目指す部屋のドアの外から恐る恐る声をかけてみると、岩崎の声がする。
ドアを開けた月子は、ああでもないこうでもないと、ブツブツ言っている岩崎の姿を見る。
窓に面して置かれる机に頬杖を付き、広げた紙を見ながら考え込んでいた。
鉛筆を握り、紙に記してはいるが、すぐ手を止めている。演奏会について頭を悩ましているのだろう。
「旦那様……芋羊羹をお待ちしました」
邪魔にならないように、そっと部屋へ入った月子は、そのハイカラな内装に驚いた。
そこは、まるで欧州《ヨーロッパ》だった。
もちろん月子は行ったことはないが、それでも、洋装姿の男女が腕を組んで颯爽と歩いている光景が目に浮かんできた。
床には、幾何学模様と花柄が織り込まれた絨毯が敷かれ、小さめの引出しがついた脇テーブルには、光沢のある白磁の花瓶があり、色とりどりの花が生けられていた。
その向かいには、どっしりとした背の高いガラス扉付きの戸棚が、脇には渋い色合いの布張りの長椅子が……、と、月子の住む世界とはまるで異なる空間が広がっている。
そんな場所で、岩崎は平然と机に向かっている。月子は、何故かくらくらと目眩のようなものに襲われた。
きっと洋式文化に押されてしまっているのだと月子は思いつつ、なんとか岩崎へ歩み寄ると、作業の邪魔にならない様、机の端に茶と芋羊羹が二切れ乗った小皿を置いた。
「うん、すまんな、月子。だが、しかし、まずいことに、私の手は塞がっているのだよ」
岩崎は、芋羊羹が運ばれて来るのを待っていたかのように、捲し立てた。
と、言われても……。
月子は首を傾げる。
作業の切りの良い所で、芋羊羹を食べる。ひとまず、作業を辞めて芋羊羹を食べる。とにかく、一度作業を止めれば良いだけの事ではないだろうかと思いつつも、俄然、手が塞がっているのだと言い張る岩崎の真意が掴めなく、月子は困惑した。
「……つ、つまりだ!あーんをすれば良いのではなかろうかと思うが……そ、それが、最善策だと思われるのだが……も、もちろん、こ、この場合に限ってなのだが、ど、どうだろう……か?」
どう思うと、そっぽを向いた岩崎に問われ、やっと月子は、意味を悟った。
月子が、お咲に食べさせてやった時、二代目も岩崎も物欲しそうにしていた。結局、梅子の一言で話があらぬ方向へ進んでしまい、誰も、あーんは出来なかった。
あの時は、大の大人が子供染みた事をするものなのだろうかと月子は、思っていたのだが、今、岩崎が、そっぽを向いているということは、それを望んでいるのだろう。
なんで、このようなことをわざわざと、少し不思議に思いつつ、岩崎の必死さ具合に月子も折れた。
「あっ、では、お手伝いいたします」
「そ、そうか、月子!」
岩崎は、やけに弾んだ返事をすると、あーんと、口を自ら開けた。
月子よりも大人のはずなのに、まるっきりお咲と一緒と言う所が、たまらなくおかしくて、月子は吹き出しそうになったが、芋羊羹を一口、岩崎へ食べさせてやる。
もごもご口を動かしていた岩崎は、
「う、うまい!!月子も食べなさい!これはうまい!」
と、大声を出すと皿に残っている芋羊羹を掴み取り、月子の口へねじ込んだ。
「うぐっ」
いきなりの事に、月子は面食らい、そして、息が詰まりそうになったが、岩崎同様もごもご口を動かしてみると……。
「おいしい!!」
「だろ?!月子!!この芋羊羹はうまいなっ!!」
「はい!旦那様!」
二人して、ほのかに甘い時間を過ごしているなど気が付かないまま、岩崎と月子は、芋羊羹の甘さにとろけきった。