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芋羊羹の上品な甘さの虜になった岩崎と月子は、その味にうんうん唸りあっていた。
「月子!これから仕事の帰りに芋羊羹を買って帰るぞ!」
楽しみに待っていろと言う岩崎へ、月子が慌てて言う。
「旦那様!船橋屋の羊羮は、午前中に売り切れるそうです。私も噂だけは聞いたことがあります」
「なに?!では、出勤前か……」
「ですが、それだと旦那様は、遅刻されてしまいます」
月子の一言に、うーんと岩崎は、考え込んだ。
「あっ!」
そこへ、月子が叫ぶ。
「どうした?まさか、月子が買いに行くと?!一人は、危ないからだめだ!」
「いえ……あの……お髭に……」
急にもじもじとする月子の様子に、岩崎も勘づいた。
「……髭か……髭なんだな……」
「あ、じっとなさっていてください」
どこか落ち込む岩崎へ、月子はそっと手を伸ばす。
「少しだけ……ですから……」
言いながら、月子は、岩崎の髭に着いている芋羊羹を摘まみ取った。
「……いかんなぁ、髭かぁ。すっかり、月子に恥を晒してばかりいる」
「そんなことは……」
しょげきっている岩崎を前に、月子は小さくなった。
一気に重い空気に包まれた部屋に、ドンドンとドアを叩く音が響き渡る。
「月子様っ!」
お咲がドアを押し開けながら顔を覗かせた。
「お咲!ドアはだなっ!」
「吉田のひつじさんに教わったよ!叩きなさいって!お咲、ちゃんとした!」
「というか、何かしらが違うのだ!で、なんなんだ?!」
やって来た用件を岩崎が問うと同時に、お咲は、嬉しそうに月子を見た。
「お咲見たんだ!ドレース!ばんざい会だから、月子様もドレースだよ!」
早く早くとお咲は手招きする。
が。当然、月子は訳がわからない。
「……なんだか良く分からんが、月子、行ってやりなさい」
岩崎は、屋敷の者に言われて呼びに来たのだろうと呟きつつ、
「……演奏家のプログラムを、練り直す……」
言うと、岩崎は鉛筆を握り机に向かって厳しい顔をした。
ドレースに、プログラム……。月子の知らない言葉ばかりで戸惑ったが、早くと急かすお咲に、待っていた芋羊羹が乗る小皿を湯飲みの側に置くと、月子は部屋から出た。
「こっち!ドレースの部屋!」
「お咲ちゃん?もしかして、芳子様に言われて?」
うん!と、大きく返事をするお咲は、すたすた迷いなく廊下を進んで行く。
「……お咲ちゃん。そのお部屋、わかるの?」
月子は、まるで昔から居る女中のようなお咲の様子に驚いた。
ひょっとしたら、お咲は、記憶力がずば抜けて良いのかもしれない。だから、部屋の位置もすぐに覚える。ということは、岩崎が演奏する曲を唄えるのも、耳が良いではなく、記憶力の問題が関わっているのかもしれない。
そんなことを思いつつ、月子は、お咲の小さな背中を頼もしく思いながら、その後を着いて行った。
暫く進むと、お咲はドアの前に立ちはだかり、拳をドンドン打ち付ける。
はーい、という軽快な返事と共に、そのドアが開かれた。
「あー!月子さん!待っていたわ!」
芳子が、椅子に座りドレスを何着か抱えていた。
女中が数人、それぞれドレスを抱え、部屋の奥から芳子の所へ持って来ている。
「どれが良いかなと思って……」
芳子は、うーんと手元のドレスを見比べた。
なるほど。演奏会の衣裳選びに付き合わされるのかと月子は思いつつ、手招かれるまま、芳子の側へ行く。
「ごめんなさいねぇ。急な話で。分家の、大おじ様がいらしてね。しかたなく、晩餐会もどきでおもてなしすることになって……」
芳子は申し訳なさそうに月子へ言うと、どのドレスが良いだろうかと月子とドレスを見比べ始めた。
「あ、あの……」
「月子さん。京一さんも、あの御前様には弱いのよ。義父様《おとうさま》の、おじ様ですからね。京一さんのおじい様の弟に当たる方だから、邪険にできないでしょ?だから、お食事をという話になって……。西洋かぶれの方だから、私達は、ドレスに着替えないといけないし……。月子さんは、取りあえず、私のドレスで、なんとか誤魔化すわ」
ああ、まったく、なんでまた。と、首をフリフリ芳子は、その大おじ様とやらの来訪を嫌がっている。
「……わ、私も……ドレスを……ですか?」
ええ、と、芳子は弱りきった顔で、月子に手元のドレスをあてがい、似合うかどうか確かめ始めた。
これは?こちらは?と、女性達が次から次へドレスを持って来る。
この状況は、月子もドレスを着て、食事に同席しないといけないようだ。
お咲が言っていたのは、ドレースはドレスの事であり、ばんざい会というのは、来客をもてなす、晩餐会というものなのだろう。
ドレスを着る事など初めてなのに、その上、岩崎家の親族と食事を共にするなど、考えただけで、月子は震えに襲われた。
「わ、私……身分が違いますし……」
声を震わせる月子に、芳子は、大丈夫、自分達もいると励ましてくれるが、そのどこか重い口振りは、月子を一層緊張させた。