前に、というか夏休みくらい。ヴォルタの2周年の時にお母さんにパソコン没収されて、泣きすがってたらまぁ、「気持ち悪い」って言われたんです。
そのことを吹っ切れているか、と言われたら絶対に頷けなくて。まだまだ、推しに、セラフに、ヴォルタに依存しているところとか無限にあって。
私には補えないものをヴォルタは持っていて、私が必要としていたものをヴォルタが持っていて。ヴォルタが持っていないところは他の推しで償えていて。私は推しがいるから成り立っているようなもので。
それが私にとって当たり前だったわけで。それが当然だったわけで。それを否定されるってさ。私という人を、人格を否定してるのと等しいわけだったの。なんか、人を信じられなくなっちゃったんだよ、その時はさ。
小学校四年生に辛いことあって、その時は自分で抱え込むしかできなかったものを、5年生、6年生、になるにつれて推しというもので忘れようとしたり、推しがいるから大丈夫、という考えで生きてきてた。小学生の時はとても辛かったし、弱いメンタルで、推しがいなかったら生きてたのかもわからない。
中学はよりキツくなって。面白そうって思って始めても、より自分が辛くなるだけだったり、それでも頑張って、って言ってくれる人はいるし、共に頑張ってくれる人もいるわけで。小学もそういう人はいたけれど、小学よりも居場所は増えたんだ。部活だって優しい先輩たちもいて、部活の友達は時々いじってくるけど時によっては友達で。居場所は増えていた。
でも、それでも辛い時は推しに依存してた。自己中に推しにすがって。今ではその行為が嫌いで。推しに迷惑をかけないことを前提に私たちは動くべきだから。
でも、依存はしちゃうんだよ。中学でも辛いものは辛くて、大人になれない自分が嫌いで。変なことで泣いちゃったり、弱くなっちゃったり、人から見放されるのが怖くて、それが嫌で嫌で嫌で。でも、推しが喋ってる時は、私は何者でもないから。推しの笑顔を見てたら不思議と笑顔になれるから、推しが辛かったらその気持ちに同情されるから、推しは私の全てを受けれいてくれる気がして、大好きだった。
今多分、推しが世界からいなくなっても、私の中にだけは生き続けてくれる。でも、私が笑えるかは謎だよね。
推しがいるおかげで私はいるわけで、推しがいないと私は私じゃないと思う。でも、推しがいなくなっても私は死にたくない。どれだけ辛くたって、私が死んだら推しも消えてしまうから。推しがいた証拠に私はなりたいから、推しがいなくなっても私は生きていきたい。
推しに依存していても、それでも私は私って言えるくらいになりたい。
推しに依存しなくなるのは、絶対無理だと言えるから。
コメント
2件
推しに依存するのは、オタクの特権だから、しゃーないと思う我() お母さん方がその文化っていうの?なんか、ないからそっち視点で見たらこっちがおかしくうつるの悲しいよね🥺
ハァァァァ?? そのお母さんうちのお父さんと一緒に処す☆