朝靄が、神域の湖面を淡く包んでいた。
その静寂の中で、彼女の新しい日々が始まった。
青龍の庇護のもと、レイは“蒼の神域”で暮らし始めた。
彼が手配した衣は柔らかく、身体を包む風は穏やかで――
これまでの血と灰の世界とはまるで違う。
だが、その平穏がどこか落ち着かない。
レイの心の奥では、戦場の記憶と裏切りの声が、今も燻っていた。
「手を見せろ。」
青龍の低い声に、レイははっとして顔を上げる。
彼の指先がそっとレイの手に触れ、掌に刻まれた古い傷跡をなぞった。
「まだ痛むのか?」
「……もう慣れました。」
「“慣れた”という言葉は、痛みを隠すための方便だ。」
青龍の言葉は冷たく響くが、その手は驚くほど優しい。
青い光が指先から流れ、レイの皮膚に温もりが染みていく。
「……不思議。あなたの力は冷たいのに、温かい。」
「それはお前の心がまだ生きている証だ。」
ふと、青龍の瞳がレイの瞳をとらえる。
静かな水面のような蒼に映るのは、まるで“人間”のような情。
神にしては、あまりにも優しすぎる光だった。
レイは思わず息を飲む。
その距離が、ほんの少し近づく。
「青龍様……」
「青龍、でいい。」
「え……?」
「ここでは、名に敬語はいらぬ。お前は、客人だ。」
その言葉に、胸が微かに疼く。
生まれて初めて、自分が“誰かに受け入れられた”気がした。
その夜。
青龍が留守の間、レイは神域の外縁、湖のほとりを歩いていた。
月の光が水面を照らし、空に青い龍の影が薄く浮かんでいる。
「……落ち着くな。」
独りごちたその時、背後から炎のような熱気が近づいた。
「こんな夜更けに散歩とは、物好きだね。」
振り返ると、朱雀がいた。
彼は相変わらず紅の衣を翻し、艶やかな笑みを浮かべている。
「青龍の庇護を受けて、少しは顔色が良くなったな。」
「あなたは……また、からかいに来たの?」
「からかい? いいや、興味だよ。」
朱雀が一歩近づく。
焔のような髪が月光に揺れ、レイの頬に熱が届く。
「その身の中に眠る“穢れ”、俺には見える。
それは神をも焼き尽くすほどの力だ。」
「……穢れって、一体何なの?」
「知らないのか?」朱雀は薄く笑う。
「お前の魂には“人の闇”と“神の欠片”が混じっている。
どちらでもなく、どちらにもなれる――危険な存在だ。」
レイは言葉を失った。
人と魔の間で生きてきた自分。
だが“神の欠片”という言葉が、胸の奥をざわつかせる。
朱雀はそっと彼女の頬に触れ、囁いた。
「もし青龍に縛られるのが怖いなら、俺が解き放ってやる。
――炎の翼で、どこまでも連れていってやる。」
その声は甘く、危うい。
レイは一歩、後ずさった。
「……それでも私は、ここにいる。」
「ほう。」
「青龍が……“生きていい”って言ってくれたから。」
朱雀の瞳が一瞬、細められる。
その微かな嫉妬を、レイは気づかない。
「……面白い。」朱雀はくすりと笑い、炎の羽を広げた。
「なら見せてみろ。お前の選んだ“生”の形を。」
朱の羽が夜空に舞い、彼はそのまま姿を消す。
翌朝。
青龍は神殿の中でレイを見つめながら、静かに言った。
「朱雀と会ったな。」
レイははっとして目を見開く。
「……見てたの?」
「この神域に、俺の目が届かぬ場所などない。」
少しの沈黙の後、青龍は目を伏せた。
「朱雀は“火”の神。人の心を焚きつける。
……お前が彼に惹かれるのも、理のうちだ。」
「惹かれる? そ、そんなこと……!」
「否定する必要はない。」
青龍の表情は変わらない。
けれど、その声の奥には、確かな熱が宿っていた。
「だが――」
彼はレイの顎をそっと指で持ち上げ、静かに告げる。
「俺の許しなしに、他の神に近づくな。」
レイの心臓が跳ねる。
その距離の近さ、瞳の深さ、指先の熱。
青龍が自分を“誰か”として見ている。
だがその瞬間、神殿の奥で激しい震動が起きた。
青龍がすぐに振り返る。
「何が……?」
「北の結界が……破られた。」
空が暗く染まり、地を這うような咆哮が響く。
青龍の表情が初めて、焦りを見せた。
「……玄武の領域が、侵されたのか。」
レイは震える唇で問う。
「まさか……魔物が?」
「いや――“それ”は魔物ではない。」
青龍の瞳に、淡い怒りの炎が宿る。
「あれは……神を喰らう者。“闇の主”だ。」
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!