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空欄ノ凪。
ねむ
6,036
第1話 空の外
私は、空を捨てた。
理由なんて、たいしたものじゃない。
ただ——ひとつ、知りたかっただけ。
あの白い世界の外に、何があるのか。
「翠羽、戻ってきなさい」
背後から聞こえた声に、翠羽は足を止めなかった。
振り返ったら、きっと帰ってしまう。
そんな気がしたから。
天界は、どこまでも白い。
雲の上に立っているはずなのに、足元の感触は曖昧で、現実なのか夢なのか分からなくなる。
けれど今、翠羽の前に広がっている景色は違った。
色があった。
淡く滲む青。
遠くまで続く濃い緑。
そして——きらきらと光る、水の色。
「……これが、地上」
思わず、声が漏れる。
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
天界では感じたことのない温度だった。
翠羽は一歩、踏み出す。
やわらかいはずの地面は、ほんの少しだけ冷たくて、確かだった。
その瞬間——
小さな影が、視界の端を横切った。
「……?」
振り返ると、そこには一匹の猫がいた。
白と灰色が混じった毛並み。
細い体で、翠羽をじっと見上げている。
警戒しているようで、それでも逃げない。
翠羽はゆっくりとしゃがみ込んだ。
「……ねえ」
声をかけても、猫は何も答えない。
けれど、その瞳は、まるで言葉を持っているみたいに静かだった。
天界には、こんな存在はいない。
決められた役目を持たず、ただそこに“生きている”だけのもの。
「自由、なんだね」
ぽつりと、呟く。
猫は小さく瞬きをして、翠羽の手に鼻先を寄せた。
その温もりに、翠羽は息を呑む。
あたたかい。
こんなにも、はっきりとした温度を感じたのは初めてだった。
「……帰りたく、ないな」
思わず、そうこぼしてしまう。
その言葉は、風に乗ってどこかへ消えていく。
——きっと、届いている。
振り返らなくても分かる。
遠く離れた場所で、芦菜がこちらを見ていることを。
怒っているかもしれない。
悲しんでいるかもしれない。
それでも。
翠羽は立ち上がる。
猫が、少し先を歩き出した。
まるで「ついてこい」とでも言うように。
翠羽は、小さく笑う。
「……案内してくれるの?」
答えはない。
けれど、足は自然と動いた。
羽のない体で、空から遠ざかるように。
それでも——
はじめて、自分の意志で進んでいる気がした。
⸻
その日、翠羽は知った。
世界は、思っていたよりもずっと広くて、
そして——優しいものばかりじゃないことを。
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