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19時30分、いつもの時間にいつもの電車がホームに迎えに来る。
赤いベルベットの椅子に腰掛ける。
朝は満員電車だ。
他人に触れないように両手を上に上げて、泥棒にも痴漢にも間違われないように気を遣って。
会社では、上司からの指示を、部下に振り分けるが、パワハラにならないように気を遣って。上司の際どい冗談で、ようやく仕事に慣れてきた新入社員たちが、不快にならないように気を遣って。
一つでもミスしたならば、社会という電車から強制下車させられる。
帰りくらいはのんびり座りたい。
 座ったら、いつもすぐに目を閉じてしまう。
電車の揺れが心地よくて、眠りそうになる。
でも、乗り過ごすわけにもいかないので、深く眠らないように気をつけて。
 その日は、叫び声で目が覚めた。
何事かと見回すと、女の子が倒れていた。
血を吐いて、泡を吹いていた。
一瞬では理解できず、しばらく呆然と見ていた。
救急を呼ばないと!と、急いでスマホを取り出すが、手袋が滑ってボタンが押せない。
破れそうなほど強引に手袋を剥ぎ取って、救急に電話をかけた。
倒れた女の子が痙攣し始め、友達と思しき女の子が気絶した。
救急隊員に何を話したかは記憶になかった。
 次の駅で、女の子が二人、救急隊員に運ばれていった。
向かいの席に座っていた女性が彼女らに付き添って電車を降りた。
入れ替わりに、駅員が二人乗り込んでくる。
「大丈夫ですか?」
「ご迷惑おかけします。」
駅員は頭を下げながら、持ち込んだモップで血だまりを掃除していく。
消毒液特有の匂いが鼻を突く。
黙々と掃除する駅員を横目に、再び動き出した電車のベルベットに腰を下ろした。
消毒液と鉄の匂いに吐き気がした。
前を向くと、反射した窓の中で、青い顔をしたスーツ姿の女性と目が合った。
突然の出来事に動揺しているのだろう。
彼女の瞳が揺れているように思った。
気まずさを感じて目を逸らした。どうして目が合うだけで気まずさを感じるのだろうか。
遅延のアナウンスにため息をつく。
遅延理由が分かっていても、苛立ちが募った。
駅員が相変わらず黙々とモップを動かしている。
血の赤は、消毒液で薄まり、桃色へと変わっていく。
けれども、血の匂いが濃くなったように感じた。
気の所為だろう。ここにいるからいけない。
隣の車両に移ろうと立ち上がり、扉に手をかけ、立ち止まった。
隣の車両は満員だった。
扉を引こうとすると、不意にめまいを感じた。
座りたい。
三歩後ろによろめいて、崩れるようにベルベットの上に腰を下ろした。
残り三駅。目を閉じていればいいだけのことだ。
匂いはすぐに慣れると言うし、全てはもう終わったことだ。
 隣の様子が脳裡から離れなかった。
…どうして隣は満員なんだ?
この車両は空いているのに。
この車両で事故があったからか?だから敬遠しているのか?
いや、でも…この時間の電車は、いつも空いていて座席は空いているはずだ。
どうして……隣は満員なんだろうか?
 気になった。
目を開け、目眩が去ったことを確認し、再び立ち上がって隣の車両をドア越しに見た。
空いていた。
ワイヤレスイヤホンを装着してスマホを見る大学生らしき男の子と、年配の女性が二人。
コートを着た会社帰りと思われる女性が一人。
Tシャツにジーパン姿の中年男性が一人。
全員、緑のベルベットの椅子に座っている。
さっき見たときは、確かに満員だったはずだ。
ぎゅうぎゅう詰めで、押し合っていたはずだ。
駅に止まったわけでもないのに、人はどこかに消えていた。
まぁいい。
隣の車両へ移ろうと扉に手をかけた。
「あの…」
後ろから女性の声がした。
振り返ると、駅員の一人‐若い男だった‐が顔を上げた。
駅員と目が合う。
視線が交わり、無言の会話が始まった。
‐何か言いましたか?
‐いいえ。
お互いの目がそう言っていた。
駅員の目に恐怖の色が見えた。
恐怖は伝播する。
恐怖に捕まる前に、俺は駅員から目を逸らしてドアの方へと視線を向けた。
疎通は終わった。
駅員が再びモップを動かし始める音が聞こえた。
ピチャ、ピチャ…。シューッ。
あの声は空耳だ。
俺はドアに手をかけた。
 ドアのガラス窓に、女性が映っていた。
青白い顔をした、スーツ姿の女。
この寒い冬の日に、コートも羽織らず、マフラーもしていない。
ガラス窓の中で視線が絡み合った。
向こう側の車両ではない。
俺の、後ろにいる。
俺は勢いよく振り返った。
女はいなかった。
 さっき無言の会話を交わした駅員が、恐怖に青ざめた顔で俺をみていた。
駅員は、何か言おうとしたのか、口元がわなわなと震わせた。
しかし、言葉になる前に、もう一人の駅員に腕をつかまれ、押し黙った。
もう一人の駅員‐年配の男だった‐は、二度、大きく首を横に振ると、掃除へと戻った。
若い駅員も、震える手で、再びモップを動かし始めた。
 足元が震えた。
もう一度、ガラス窓を見る勇気はなかった。
ベルベットの赤を目指して大股で二歩。
何事もなかったかのように、どかっと腰掛ける。
なにもない。
ホームへの到着アナウンスが流れる。
駅員たちが降りる用意をし始めた。
俺の降りる駅は、あと二駅先だった。
俺は鞄を持って立ち上がり、駅員と共に電車を降りるため、ドアに近づいた。
プシューっと空気の抜けるような音がしてドアが開く。
駅員が降りていく。
その後に続くため、足を踏み出した俺の背後から、女の声がした。
「あの…」
俺は逃げるように一目散にドアから飛び出した。
後ろは振り返らず、足早に改札を抜け、駅を出た。
行き交う人の流れに乗って歩いた。
 吐く息は白い。
だが、俺の顔が青いのは、寒さのせいではない。
 妻に電話して迎えを頼もうとポケットに手を伸ばした。
触り慣れた四角い箱を掴む。
指が震えた。
手袋はどうしたかな?あの救急電話をかけたあと…。
スマホのロックを解除して、通話ボタンを押す。
3度目のコール音のあと、一瞬妻の声がした。
「…あ、俺…」
カチッと音がした。
「ただいま電話に出ることができません。ご用の方は」
時計を見ると、21時を過ぎていた。
家にいるはずだ。
どうして電話に出ない?
さっき一瞬、声がした。確かに聞こえた。
タクシーだ!タクシーを捕まえないと!
タクシー!タクシー!タクシー!タクシー!タクシー!
…バンッ