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連絡すると言っていたものの、その後宍戸からは電話もメールもなかった。
あの朝以降も、彼とは社内で何度か顔を合わせていたが、みなみへの態度は何も変わっていないように見えた。
用件は映画の誘いだけだったのか、それとも他にも何か用事があったのかは分からない。いずれにしても連絡がないということは、それらは解決済みなのだろうとみなみは解釈した。となると、もう宍戸からの連絡を気にする必要はないはずだが、悶々とする。『らしくない』宍戸の様子や、山中の意味深な言葉に心がかき乱され、そのせいでせっかくの休日だというのに、いまひとつすっきりしない気分で過ごしていた。
日曜日になって、こういう時は体を動かした方が気が紛れるはずだと、季節外れの大掃除をすることにした。昼食を早めに済ませて、ひたすら部屋中を掃除して回る。すべて終わった時には全身汗だくだ。隅々まで綺麗になった部屋を見回し、我ながらよく頑張ったとみなみは自分を褒めた。
「完璧ね。だけど気合い入れすぎたな。気分転換にはなったけど、ちょっと疲れちゃった。お風呂に入ってしまおう」
入浴の準備を整えてバスルームに入る。頭から足の先まで汗とほこりを洗い流し、ぬるめのお湯を張ったバスタブにアロマオイルを数滴たらしてから、ゆっくりと湯に浸かる。十分にリラックスして、湯船から立ち上がった。浴室から出て、濡れた体をバスタオルで拭く。この後は何の予定もないからと、素肌の上に直接長袖のカットソーとロングワンピースを身に着けた。
髪を乾かすためにドライヤーに手を伸ばした時、洗面台に置いておいた携帯電話が鳴った。宍戸の名前が画面上に表示されている。もしや例の連絡かとごくりと生唾を飲み、のろのろと電話に手を伸ばした。
「もしもし?」
『 岡野?』
「えぇ。……こんばんわ」
『 こんばんわ。あのさ。これから直接会って話したいことがあるんだ』
「えっ、これから?!」
みなみは慌てた。入浴を済ませたばかりで、とても他人の前には出られない格好をしている。
「それはちょっと……。また改めてもらえる?」
ところが宍戸は珍しく強引だった。
『 今、話したいんだ』
「電話じゃだめなの?」
『大事なことだから、顔を見て直接話したい』
「それは、困る」
断るみなみに宍戸は告げる。
『 実はもう、岡野のアパートの前にいるんだよ』
「ええっ!」
みなみは驚きの声を上げた。その弾みで携帯電話を落としそうになる。
「うちの場所、どうして知ってるのよ?」
宍戸の落ち着いた声が返ってくる。
『前に同期のみんなで飲んだことがあっただろ。あの時の帰りに、一緒のタクシーに乗ったじゃないか。最初に降りたのが岡野でさ』
「あ、あぁ、あの時ね……。で、でも、それにしたって、どうしてそんな、急に話だなんて」
『連絡するって言ったの忘れたのか?それに、俺にとっては急なことでもなんでもないんだよ。一応聞くけどさ、もしも事前に二人だけで会って話したいって言ったら、時間作ってくれたのか?』
「それは……」
みなみは口ごもった。含みのある彼の言い方に、わざわざここまでやって来た理由が想像される。まさかそんなはずはないと打ち消そうとしたが、みなみの鼓動はその予感のためにすでに落ち着きをなくしていた。
『頼む。話を聞いてくれないか』
宍戸の口調は真剣だ。
できることなら、彼の話を聞きたくなかった。聞いてしまえば、この同僚との気の置けない関係が崩れてしまいそうで怖い。しかし、ここで彼から逃げてしまえばこの先もそれは続き、結局互いに気まずくなるだろう。どのみち、彼との関係の変化を避けられないのであれば、今しっかりと、彼と向き合った方がまだいいかもしれないと思い始める。いずれ時がたった時、今の遼子と山中がそうであるように、自分と宍戸も再び良好な関係を築くことができるかもしれないのだ。思い直したみなみは心を決める。
「分かった」
『ありがとう……』
宍戸のほっとしたような息遣いを感じた後、みなみははっとする。彼の前に出るには、まずは自分のこの格好をなんとかしなければならない。
「少し待ってもらえる?」
『あぁ』
電話を切ってすぐ、みなみは大急ぎで髪を乾かし始めた。湿り気はまだ残っていたが、時間がないため適当にまとめる。顔には軽くパウダーをはたき、さっと眉を描いた。最後にもう一度自分の姿を鏡で確認してからサンダルをひっかけて玄関に降り、そうっとドアを開けた。アパートの前にいると言っていた宍戸の姿を探す。
彼はアパート前の植え込みの傍に立っていた。時間を気にしているのか、腕時計に目を落としていたが、ドアの開く音に気づいて首を回した。ぎこちない笑顔を浮かべながら、ゆっくりとした足取りでみなみのもとへとやって来る。瞳を揺らし、かすれた声で彼は言う。
「急にごめん」
「う、うん……」
彼の緊張がみなみにまで伝わり、答える声が小さくなった。
「あのさ。できれば玄関に入れてくれない?このままここで話すのは落ち着かないから」
「でも……」
「なんなら近くの店にでも行くか?支度できるまで待ってるから」
みなみは迷った。このままでは出かけられず、支度する間宍戸を待たせることになる。しかし、これからわざわざ準備してどこかの店に移動するのも面倒だ。外で話すのは彼の言う通り落ち着かないし、周りの目も気になる。みなみはため息をついて、彼を促す。
「……分かった。入って」
「あ、あぁ……」
言い出したのは自分のくせに、彼の顔にためらいが浮かぶ。突然の訪問に対する報復というわけではないが、ほんの少し意地悪な気分になり、みなみは彼に訊ねる。
「どうする?また、日を改める?」
「いや」
宍戸はきっぱりと首を横に振った。
みなみは苦笑しながら、ドアを開ける。
「玄関で、だからね」
「分かってるよ。――お邪魔します」
宍戸はみなみの後に続き、玄関に足を踏み入れた。
みなみはサンダルを脱いで上がり框に立ち、彼に向き直る。
広くはない申し訳程度の玄関で、実際に宍戸と向かい合ってみて、みなみは後悔した。思っていた以上に彼との距離が近い。
やっぱり場所を変えた方がいいだろうかと迷い始めた時、宍戸が静かな声でみなみを呼ぶ。
「岡野」
「は、はい」
宍戸は目元を綻ばせて、もう一度みなみの名を呼ぶ。
「岡野」
それは彼と知り合ってから初めて耳にする甘い声だった。おずおずと目を上げたそこにあったのは、やはり初めて見る甘い表情だ。知らなかった彼の一面にみなみはどきりとした。しかし、これはただ動揺しているだけだと自分に言い聞かせて、きゅっと唇を引き結ぶ。
「後悔したくないから、来たんだ。どうしても伝えておきたくて」
みなみは身構えた。この後の展開は予想した通りのものになるだろうと、緊張する。
宍戸の双眸は真っすぐにみなみを見ている。彼はおもむろに口を開き、はっきりとした口調で告げる。
「岡野が好きだ。新人研修の時からずっと、お前のことが気になって仕方なかった。どんな理由をつけてでも、お前の近くにいたいと思った。でもいつも俺は素直になれなくて、お前のことをからかったり、絡んだり、憎まれ口をたたいてみたり、まるで子どもみたいなことばかりしてた。ごめんな」
予感は当たった。そして宍戸の言葉を聞いて、みなみはようやく腑に落ちた。これまでの彼の態度のすべての謎が解けたような気がした。決して嫌いではない宍戸の、飾らない言葉に心が揺れそうになる。もしも今自分に好きな人がいなかったら、彼の告白に頷いてしまったかもしれないと思えるほど、彼の言葉は真摯だった。しかし彼の気持ちには応えられない。
「岡野が山中部長補佐しか見てないってことは、知ってる」
みなみははっとして目を見開いた。
見上げた宍戸のまなざしには、苦い思いがにじんでいた。