コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
連絡する――。
休憩スペースであの時そう言った宍戸からは、電話もメールも来なかった。別にそれを待っていたわけではない。
この一週間の間にも、宍戸とは社内で何回か顔を合わせたりしたが、私に対する彼の態度はいつもと変わりなく見えた。だから、彼の用件はもう解決したのだろうと思った。
それなのに、私はもやもやしていた。あの時私の前で見せた『らしくない』宍戸の様子、山中部長補佐の意味深な言葉、そういった様々が私の心をかき乱す。おかげで、せっかくの週末だというのに何をするにも集中できないでいた。
こういう時は、とにかく体を動かすのがイチバンだ。
そう思いたった私は早めの昼食を済ませると、ひたすら部屋中を掃除して回った。いつもは見て見ぬふりをしていた場所まで雑巾がけをするという、大掃除並みの掃除だ。終わった時には、額際や背中がしっとりと汗ばんでいた。
「うん、カンペキ!」
我ながらよく頑張ったと、綺麗になった部屋を大満足で見回した。
「気合い入れすぎたかな。気分転換にはなったけど、ちょっと疲れちゃった」
私は一人ごちると、夕食前に入浴することにした。頭にバンダナを巻いてはいたけれど、髪にほこりがついているかもしれないし、汗もかいた。
全身を綺麗に洗った後は、ぬるめのお湯を張ったバスタブにアロマオイルを数滴垂らす。好きな香りを薫らせながら時間を気にせずにバスタイムを楽しめるのは、一人暮らしならではの贅沢な時間だ。
「ふわぁ。気持ちいい」
こうやってのんびりしていると、この数日の間にあった様々な出来事が、実は夢だったのではないかと思えてくる。
「補佐を好きだっていう気持ちは、夢じゃないんだけどね」
小さくつぶやいたつもりのひとり言が思ったよりも大きく響いて、私は苦笑した。
「上がろう」
ざぶっと水音を立てて私は湯船から立ち上がり、浴室から出た。バスタオルで濡れた体を拭いた後、特に予定もないから上半身は素肌の上に長袖のカットソーとロングワンピースをそのまま身に着ける。
髪を乾かそうとしてドライヤーを手に取った時、洗面台に置いた携帯が鳴り出した。誰だろうと思いながらも、予感があった。そして案の定、宍戸の名前が画面上に表示されていた。
連絡すると言っていたその電話だよね、たぶん……。
鳴り続けるコール音を無視できなくて、私はドライヤーを置いて電話を手に取った。
「もしもし……」
―― 岡野?
わずかな間を置いて、電話の向こうから宍戸の低い声が聞こえてきた。
「はい……」
―― 今、いい?
「……できれば手短にお願いしたいんだけど」
私は鏡に映る自分の姿を目に入れた。濡れたままの髪が首筋にひんやりと当たって、嫌な感じがする。早く乾かしたい。
ところが宍戸はこんなことを言い出した。
―― これから会って話したいことがあるんだ。
「えっ!」
私は慌てた。今日はもう何の予定もないからと入浴を済ませたわけで、今はこんな状態だし、相手が宍戸じゃなくても他人の前にはとても出られない。
「あの、また改めてということでお願いしたいんだけど……」
―― 今、話したいことなんだ。
いつもより落ち着き払った様子の宍戸は、知らない人のようだ。
困惑していると、彼はさらに私を動揺させるようなことを口にした。
―― 実はもう、岡野のアパートの前にいるんだ。
「ええっ!」
予想外のことに焦った私は、手を滑らせて携帯を落としそうになった。
「ちょ、ちょっと待って!うちの場所、どうして知ってるの?」
私の反応は想定内だったのか、答える宍戸の声は落ち着いている。
―― 別にストーカーしてたとかじゃないからな。同期のみんなで飲んだことがあっただろ。あの時、帰りのタクシーに一緒に乗ったじゃないか。最初に降りたのが岡野でさ。それで覚えていただけだよ。
「あ、あぁ、あの時ね……。で、でも、それにしたって、どうしてそんな急に」
―― 俺にとっちゃ、急でもないんだけどね。一応聞くけど、前もって二人で会って話したいって言ったら、岡野は時間作ってくれたか?
含みのある宍戸の言い方に、まさか、と思った。今さらだけど、宍戸の『らしくなかった』態度や補佐がもらした意味深な言葉が、今繋がったような気がした。
信じられないけれど、これってもしかして、そういうこと……?
察しながらも私の心はまだ抵抗を続けている。その話から逃げたいと思っている。
「それは、内容にもよるかな……」
ここで宍戸の話を聞いてしまったら、この同僚とはこの先、今までと同じようにはつき合えないんじゃないかと思った。それはとても寂しい。
そんなずるいことを考える私に、宍戸はなおも静かに言った。
―― 少しでいいんだ。話を聞いてくれないか。
宍戸ってこんな人だっただろうか……。
大人の男性然としたその雰囲気にのまれそうになって、すぐに言葉が出ない。仲のいい同期としてしか見ていなかったのに、確かに彼は異性なのだと改めて気づかされたような思いがした。
ここで逃げてしまったら、これからもずっと宍戸から逃げることになる?
そう考えて、それは嫌だと思った。だから、自分にも念を押すような気持ちで私は宍戸に訊ねた。
「それは、今じゃなきゃ、だめなのね?」
彼は短く、けれどはっきりと答えた。
―― あぁ。
気持ちを落ち着かせようとして、私は長く息をはいた。宍戸に向き合うことを決める。
「分かった……」
電話の向こうの沈黙はほんの数秒。宍戸は言った。
―― ありがとう。
しかし彼の前に出るにはまず、自分のこの姿を多少は見られるような状態にしなくてはならない。
「少し待ってもらえる?」
―― あぁ。
電話を切った後、これで良かったのかと後悔がちらりと頭をかすめた。しかしそれを打ち消して、私は大急ぎで髪を乾かした。少し湿り気が残っているが、後は自然に任せることにしてバレッタで簡単にまとめる。顔には軽くパウダーをはたき、さっと眉を描く。
とりあえず、これでいいか……。
最後にもう一度だけ自分の姿を鏡で確認すると、私はサンダルを履いて玄関に降りた。ドアの小さなのぞき穴から外の様子を伺うが、そこから見える場所には誰もいない。
アパートの前にいるって言っていたけど――。
私は外に出ると閉めたドアを背に立ち、宍戸を探して辺りを見回した。
いた……。
宍戸はアパート前にある植え込みの前に立っていた。時間を気にしているのかスマホの画面に目を落としていたが、ドアが開いた音に気づいて私の方へ首を回した。
宍戸と目が合って、私はつい目を逸らした。
私の方から声をかけた方がいいのかな――。
そんなことを考えている間に、宍戸はゆっくりとした足取りでやって来た。私を目の前にした途端、表情を揺らす。
「急に、ごめん」
「うん……」
かすれたような宍戸の声に、私もつられて声が小さくなる。
休日だから当たり前なのだが、宍戸のラフな私服姿を見たら、なぜか急に緊張する。そんな姿の彼を見るのは、初めてではない。新人研修の時にすでに見ていて、あの時は特に何にも感じなかった。彼の様子がいつもと違うから、私まで調子が狂ってしまっているらしい。
「あのさ」
と宍戸が口を開いたその時、風が強く吹いた。
思わず私はつぶやく。
「少し肌寒いね」
「あ、ああ、そうだよな」
宍戸はハッとして私を見下ろした。
「まだ夕方はちょっとな。……岡野、せめて玄関に入れてくれない?このままここで話すのは落ち着かないし、岡野も風邪引きたくないだろ」
「え、えぇと」
ためらう私に宍戸は訊ねる。
「それとも、近くの店にでも行くか?支度できるまで待ってるけど」
どうしようかと迷う。このままの格好では出かけられない。でも、わざわざ準備してどこかに移動するのも面倒だ。とは言え、こうやって外で話しているのも、宍戸が言うように落ち着かない。周りの目も気になる。
「……分かった。入って」
そう言いながら私は体の向きを変え、肩越しに宍戸を見た。
私の見間違いでなければ、宍戸が躊躇したように見えた。
突然の訪問に対する報復というわけじゃないけれど、少し意地悪をしたいような気持ちになって、私は念を押すように訊ねた。
「どうする?また、日を改める?」
「いや」
宍戸は即座に首を横に振った。
「玄関で、だからね」
「分かってるよ。――お邪魔します」
苦笑を浮かべながら、宍戸は私が開けたドアの内側に足を踏み入れた。
私はサンダルを脱いで上がり框に立ち、宍戸に向き直った。
玄関は広いわけではない。そこで実際に相対してみると、私たちの間の距離は思っていた以上に近かった。段差も低いから目線も宍戸と同じくらいの高さになってしまい、どこを見たらいいのか迷う。玄関とはいえ、ここで二人きりになるのはやめた方が良かっただろうかと、後悔し始めていた。
やっぱり場所を変えようか――。
そんなことを思った時、宍戸が私の名前を静かな声で呼んだ。
「岡野」
「は、はい」
思わず律儀に返事をしてしまい、ここは会社ではないのに、と恥ずかしくなる。
それを見た宍戸はふっと表情を緩めると、もう一度私を呼んだ。
「岡野」
それは宍戸と知り合って初めて耳にする甘い声であり、初めて見る甘い表情だった。知らなかった彼の一面に、私はドキドキしてしまう。
これはただの動揺だ――。
私はきゅっと唇を引き結んだ。
「後悔したくないから来た」
私は身構えた。この後の展開は予想がついている。会うことを決めた時に、こうなるだろうと分かっていた。私は緊張で顔を強張らせながら、宍戸を見た。
「どうしても伝えておきたかった」
彼はそう言って私を真っすぐ見ると、かすれた声で、しかしはっきりとした口調で続ける。
「お前が、好きだ。新人研修で何度か話をすることがあってからずっと、岡野のことが気になって仕方なかった。色んな理由をつけて、できるだけお前の近くにいたいと思った。でも俺は素直になれなくて、お前のことをからかったり絡んだり、まるで子どもみたいな真似をしてた。すまない」
それを聞いた私は、そうだったのかと、これまでの宍戸の態度の謎が解けたような気がした。飾り気のない彼の言葉に、心が揺れそうになった。もしも私に好きな人がいなかったら、その告白に頷いてしまったかもしれない。でも、私は――。
どんな言葉を返せばいいのかと考え込む私に、宍戸は苦い思いをにじませた眼差しを向ける。
「岡野が山中部長補佐しか見てないってことは、知ってる」