テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
樹海――そこは生者と死者の境界が曖昧になる場所。「もうすぐ日が落ちるわ。今日はここで野宿しましょう」
私の提案に、相棒のカレンは「賛成!薪を拾ってくるよ」と軽く手を振って深い霧の中へと消えていった。
寝所の準備を終えた頃、辺りは濃藍(こいあい)に包まれていた。不安がよぎった瞬間、背後から「うらめしや〜」とおどけた声がした。「きゃあ!」と拳を飛ばす私に、カレンは「痛ってぇ!」と笑う。そんな騒がしいやり取りをしながら、彼女が熾した火が、夜の静寂を照らし始めた。
シャリン……シャリン……。
澄んだ鈴の音が響く。私はカレンを制し、火を消した。亡き者たちが彼岸へ向かう列だ。生者の火に惑わされれば、彼らは永遠に彷徨うことになる。息を潜め、音が遠ざかるのを待った。
だが、闇はまだ終わっていなかった。
「ねぇ、お母さんはどこ?」
一寸先も見えない暗闇から、か細い少女の声がした。カレンが再び灯した火に浮かび上がったのは、透き通るような肌をした、列に乗り遅れた迷い子だった。
少女を連れて、私は森の奥にある古い民家へと向かった。
「誰だ……」
扉を開けた男の姿に、私は息を呑んだ。男の服は汚れ、部屋の中には、無数の継ぎ接ぎだらけのぬいぐるみが転がっていた。
「娘は……熊に襲われて死んだ。あの子が最後に抱いていたこの人形だけが、ボロボロで見つかって……」
男の指は、針仕事で傷だらけだった。
「私が、もっと早く猟から戻っていれば……。せめて、この人形だけでも元通りに直してやりたいんだ。そうすれば、あの子が帰ってくる気がして……」
男の目の前で、少女は「パパ、泣かないで。私はここだよ」と必死にその体を抱きしめていた。だが、彼女の腕は虚空をすり抜け、父親にその温もりが伝わることはない。
男が必死に繕っているのは、娘の「死」そのものだった。
私は、過去に、最愛の人を亡くした。その事を思い出し、居ても立ってもいられなかった。
私は懐から、銀細工の眼鏡を取り出した。
「これを使ってください。旅の魔女からの、せめてもの贈り物です」
男が半信半疑でその眼鏡をかけた瞬間――。
白黒だった彼の世界に、色彩が溢れた。目の前で泣きじゃくりながら、自分を抱きしめようとしている、愛しい娘の姿が映し出されたのだ。
「……あ……ああ、あぁ……!」
「パパ、ただいま! お人形、直してくれてありがとう!」
「おかえり……おかえり、私の宝物……っ!」
男は震える手を伸ばした。魔法の眼鏡が、二人の境界線を一時だけ溶かし、男の指先に、確かに娘の肩の温もりが伝わった。父親の枯れ果てたはずの涙が、娘の透き通った頬を濡らす。
私は、二人の輪郭が光に溶けていくのを最後まで見届けることなく、静かにその場を去った。
森の入り口に戻ると、カレンが大きな欠伸をしながら待っていた。
「おーい、相棒! どこ行ってたんだよ、腹減ったぜ」
「……少し、忘れ物を取りに行っていただけよ」
私が目を伏せると、カレンは何も聞かずに、「そうかよ」とだけ言って、私の頭を乱暴に、けれど優しく撫でた。彼女の掌には、私が消したはずの焚き火の温もりが、まだ微かに残っていた。
「……さあ、行こう。次の街へ」
朝日が樹海の霧を透かし、私たちの足元を明るく照らし出していた。