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『紗良』 橋の上には、夜になると世界から切り離されたみたいに静かだった。
街灯のオレンジ色だけが、川の表面で揺れている。
塾の帰り。
制服のまま、参考書の入った重い鞄を肩にかけたまま。
いつもなら真っ直ぐ帰るはずなのに、足は勝手にここへ向かっていた。
会えるわけがない。
だって、もう来ないって決めたのは――多分、向こうだ。
それでも。
ここは、屋上の代わりみたいな場所だった。
名前のない関係の、唯一の証拠みたいな場所。
「……来るわけないのに」
小さく呟いた声は、川に落ちて消えた。
そのとき。
「……お前、まだ来てたんだ」
背後から、低い声がした。
体が固まる。
振り向くのが怖い。
でも振り向かなきゃ、現実じゃない気がして。
ゆっくり振り返る。
いた。
少し痩せて、目の下に影があって、前よりもずっと弱そうで。
それでも、間違いなく――あの人だった。
言葉が出ない。
胸の奥が痛すぎて、呼吸がうまくできない。
「……塾帰り?」
どうでもいい質問。
でも、それしか言えなかった。
悠真は少しだけ笑った。
「優等生だな」
その言葉に、胸がちくりと痛む。
沈黙。
川の音だけが、間に流れる。
やっと絞り出した。
「……来ないと思ってた」
「来るつもりなかった」
即答だった。
それが、余計にしんどい。
「じゃあ、なんで」
悠真は少しだけ目を逸らして、
「……通りかかっただけ」
嘘だと思った。
でも、追求する資格なんてない。
だって、――壊したのは、私だ。
「……あのさ」
自分でも震えてるのがわけう声で言った。
「屋上……来なくなったの、私のせい?」
悠真は何も言わない。
それが答えだった。
喉が閉まる。
それでも、聞かなきゃいけない。
「……ごめん」
初めて言った。
あの時言えなかった言葉。
「私……最低なこと言った」
沈黙。
悠真は、川を見たままだった。
「……別に」
「別にじゃない」
思わず強く言ってしまう。
「知らないくせにって言った。」
「抱えてないくせにって言った。」
「あれ……本気じゃない。」
「あんなの、ただの八つ当たりで――」
声が震える。
涙が出そうになるのを必死で堪える。
「……本当にごめん」
しばらくして、悠真がぽつりと言った。
「……言われ慣れてるから」
その言葉は、想像以上に重かった。
「え……?」
「そういうの」
軽く言ったみたいなのに、全然軽くない。
嫌な予感がした。
「……どういう意味?」
悠真は黙る。
言わないつもりだとわかる。
でも、もう引けなかった。
「何も抱えてないわけないって、分かってる」
沈黙。
「……教えて」
それでも返事はない。
「お願い」
言ってしまった。
優等生が使わない言葉。
「……知りたいの」
長い、長い沈黙。
やがて、悠真が深く息を吐いた。
「……後悔するぞ」
「しない」
即答だった。
悠真は苦く笑った。
「みんなそう言う」
そして、静かに言った。
「俺、小学生のときさ」
声が変わる。
無理に平静を保ってる声。
「クラスに、ひとりいたんだよ。優等生の子」
心臓が跳ねた。
「完璧で、誰にでも優しくて、先生にも好かれてて、みんな頼ってて。」
――それ、まるで。
「でも、ある日気づいた」
指が白くなるほど、橋の手すりを握っている。
「そいつ、笑ってるのに目が笑ってなかった」
息が止まる。
「放っておけなくて、毎日話しかけてた。」
「屋上じゃないけど……似たような場所で」
体の奥が凍っていく。
「そしたら、だんだん笑うようになって」
悠真の声が震える。
「俺、勘違いしてたんだよ」
「……何を?」
「助けられるって」
その言葉は、祈りみたいだった。
「でもさ」
少しだけ間が空く。
「その子、ある日いなくなった」
血の気が引いた。
「転校でも、病気でもない」
悠真の声が、壊れそうに揺れる。
「――死んだ」
世界の音が消えた。
「家で倒れて、そのまま」
呼吸ができない。
「後から聞いた」
「ずっと無理してたって」
「誰にも言えなくて」
胸の奥で、何かが崩れる。
「俺、最後に会ったとき言われたんだよ」
悠真の目が、こちらを向く。
「『大丈夫だよ』って」
涙が、頬を伝っていた。
「……全然、大丈夫じゃなかったのに」
声が掠れる。
「俺、何も分かってなかった」
唇が震えている。
「助けたいとか思って、結局何もできなくて」
そして。
「だから、お前に言われたとき思った」
目が赤い。
「――また同じだなって」
次の瞬間。
涙が、ぽろぽろと落ちた。
音もなく。
堰が切れたみたいに。
「俺、誰も助けられない」
嗚咽を必死に飲み込む声。
「近づくほど、壊す」
肩が震えている。
「だから、屋上行くのやめた」
胸が裂ける。
「……ごめん」
震える声で言う。
「俺、また同じことするのが怖くて」
足が勝手に動いた。
気づいたら、悠真のすぐ前にいた。
震えている肩が、近くで見える。
思考より先に、手が伸びる。
制服の袖を、ぎゅっと掴んだ。
悠真が驚いて顔を上げる。
涙でぐちゃぐちゃの目。
それを見た瞬間、確信した。
ずっと我慢してきた人の泣き方だ。
「……違う」
声が震える。
「違うよ」
悠真が何も言えずに見ている。
「助けられなかったんじゃない」
喉が痛い。
それでも言う。
「その子、きっと嬉しかった」
「……何が」
掠れた声。
「ひとりじゃなかったこと」
涙が止まらない。
「あなたがいたこと」
悠真の目が揺れる。
「大丈夫って言ったの、嘘じゃない」
「……でも死んだ」
「それでも」
力を込めて言う。
「それでも、あなたがいた時間は本物でしょ」
沈黙。
そして、ぽつりと。
「……お前、優等生のくせに」
「優等生だから分かるの」
涙で視界あ滲む。
「頼られる側って、弱いところ見せられないから」
言ってしまった。
初めて、誰かに。
「……壊れてても、笑うしかない」
悠真の目が見開かれる。
「みんなが安心するから」
声が震える。
「正しくないといけないから」
声が消えそうになる。
「……殺されるまで」
沈黙。
川の音だけが、戻ってくる。
悠真が、ゆっくり言った。
「……あの子」
心臓が止まりそうになる。
「名前、紗良って言った」
世界が凍りついた。
手の力が抜ける。
「……え?」
悠真は続ける。
「紗良。漢字は知らないけど」
呼吸ができない。
とても、大事なことを忘れていた。
「お前と同じ名前だなって思ってた」
視界が真っ白になる。
忘れていた、過去の記憶。
「……その子、さ」
悠真の声が、優しくなる。
「すげぇ優等生だった」
身に覚えのある話。
涙が止まらない。
「でも、たまに全部消えそうな顔してた」
全ての話が繋がる。
体が震える。
「だから――」
悠真がはっとした顔をする。
「……お前」
立っていられない。
膝から崩れ落ちる。
嗚咽が漏れる。
止まらない。
「……私」
声にならない。
「私、それ」
やっと絞り出す。
「……私だよ」
悠真の瞳が、完全に止まる。
風が吹く。
世界が動かない。
「……あのときの紗良、私」
声が震える。
「覚えてなかっただけ」
泣きながら言う。
「倒れたあと、全部ぐちゃぐちゃになっちゃって」
「……は?」
悠真の声が、掠れる。
「何も覚えてなくて、引っ越して、」
「何もなかったことになって」
息が詰まる。
「でも、苦しいのだけ残ってた」
涙が止まらない。
「理由も分からないまま」
悠真が、ゆっくり後ずさる。
信じられないものを見る目。
「……嘘だろ」
「本当」
震える声。
「私、悠真のことも覚えてなかった」
胸が裂ける。
「でも、屋上で会ったとき、なんか落ち着いたの」
涙が溢れる。
「理由、今分かった」
沈黙。
長い、長い沈黙。
やがて、悠真の膝が崩れた。
橋の上に、二人とも座り込む形になる。
顔を覆う。
肩が大きく揺れる。
「……最悪だ」
嗚咽混じりの声。
「俺、またお前に」
言葉にならない。
震える手で悠真の袖を握る。
今度は、離さないように。
「……今度は違う」
ゆっくり言う。
「死んでない」
悠真が顔を上げる。
涙でぐちゃぐちゃな顔。
「ここにいる」
息が震える。
「ちゃんといる」
沈黙。
やがて、悠真がぽつりと言った。
「……また消えたら」
声が掠れている。
「今度こそ無理だ」
紗良は、迷わず言った。
「消えない」
「……保証は」
「ない」
正直に言う。
「でも」
袖を握る力を強める。
「ひとりで消えたりしない」
涙が頬を伝う。
「今度は、言う」
震える声で。
「苦しいって」
長い沈黙。
そして。
悠真の手が、震えながら自分の手と重なる。
弱くて、頼りなくて、でも確かに掴んでいる。
「……遅えよ」
泣き笑いみたいな声。
泣きながら笑った。
橋の上で、二人だけが崩れている。
正しさに押し潰されかけた二人が、
初めて正しくない姿のままで、
同じ場所に座っている。
夜風が吹く。
もう、前みたいな孤独の風じゃなかった。
『悠真』
橋の上に来るつもりなんてなかった。
学校にも行ってない。
外にもほとんど出ていない。
昼夜もぐちゃぐちゃで、何曜日かも分からない。
ただ、今はたまたま家を出た。
理由はない。
部屋にいると、声が聞こえる気がしたから。
「何も抱えてないくせに」
何度も何度も、繰り返し。
あの言葉は正しかった。
だから刺さった。
俺は何も抱えちゃいけない側だと思ってた。
あいつを守れなかったんだから。
橋が見えた時、足が止まった。
行くな、来るな、関わるな。
頭の中で全部が叫んでるのに、体は逆方向へ進む。
街灯の下に、誰かが立っていた。
制服、塾の鞄、背筋の伸びた姿。
一瞬で分かった。
――あいつだ。
逃げようと思った。
本気で。
でも、
ここで逃げたら、一生終わる気がした。
「……お前、まだ来てたんだ」
声が出た瞬間、後悔した。
振り向いた顔は、思ってたよりずっと弱かった。
優等生の顔じゃない。
屋上で見ていた顔だ。
「……塾帰り?」
どうでもいい質問。
でも、普通の会話をしないと壊れそうだった。
「優等生だな」
言った瞬間、嫌な顔をした。
そりゃそうだ。
俺が一番その言葉を嫌ってるくせに。
「……来ないと思ってった」
胸が痛む。
「来るつもりなかった」
本当だ。
本当にそのつもりだった。
「じゃあ、なんで」
答えられない。
「……通りかかっただけ」
嘘だ。
でも、本当のことを言う勇気もない。
しばらく沈黙。
その空気が、昔と同じで苦しかった。
「……あのさ」
声が震えている。
嫌な予感がした。
「屋上……来なくなったの、私のせい?」
答えられない。
答えたら、全部答える。
黙るしかなかった。
「……ごめん」
その一言で、心臓が止まった。
「私……最低なことを言った」
違う。
最低なのは俺だ。
でも言えない。
「知らないくせにって言った。」
「抱えてないくせにって言った。」
「あれ……本気じゃない」
やめろ。
「……本当にごめん」
胸が痛い…
痛すぎて、逆に何も感じない。
口から出たのは、
「……言われ慣れてるから」
本当だった。
先生にも言われた。
親にも言われた。
「もっとしっかりしろ」
「いつまで引きずってるんだ」
「前を向け」
全部、、正しい。
だから苦しい。
「え……?」
「そういうの」
これ以上話したくない。
でも、終わらない。
「……どういう意味?」
聞くな。
聞いたら、お前も壊れる。
黙る。
「何も抱えてないわけないって、分かってる」
その言葉が、一番危険だった。
理解しようとする人間は、深くまでくる。
「……教えて」
無理だ。
「お願い」
その言葉で、終わった。
優等生がお願いなんてするわけない。
つまり、これは――本気だ。
逃げられない。
「……後悔するぞ」
「しない」
みんなそう言う。
みんな途中で逃げる。
「俺、小学生のときさ」
声が勝手に来た。
止められない。
「クラスに、一人いたんだよ。優等生の子」
思い出す。
机に向かう横顔。
完璧な字。
誰にでも優しい声。
「でも、ある日気づいた」
心臓が痛む。
「そいつ、笑ってるのに目が笑ってなかった」
あの違和感。
今でも忘れられない。
「放っとけなくて、毎日話しかけてた」
本当は、放っておけなかったのは俺の方だ。
あいつがいないと、教室が苦しかった。
「だんだん笑うようになって」
あの笑顔は、本物だと思ってた。
「俺、勘違いしたんだよ」
助けられたって。
救えたって。
「その子、ある日いなくなった」
心臓が締め付けられる。
「――死んだ」
言った瞬間、喉が焼ける。
何度行っても慣れない。
「ずっと無理してたって」
知らなかった。
気づけなかった。
何もできなかった。
「俺、最後に会ったとき言われたんだよ」
『大丈夫だよ』
あの声。
あの笑顔。
全部嘘だった。
涙が落ちる。
止まらない。
「俺、誰も助けられない」
本音が出る。
「近づくほど、壊す」
だから逃げた。
屋上からも、あいつからも。
「だから。屋上に行くのやめた」
沈黙。
足音。
気づいたら、すぐ前にいた。
逃げる力も残ってない。
袖を掴まれる。
その手は、驚くほど弱くて、震えていて。
「……違う」
泣きそうな声。
「助けられなかったんじゃない」
そんなわけない。
「その子きっと嬉しかった」
「……何が」
「一人じゃなかったこと」
胸が締め付けられる。
そんなふうに考えたこと、なかった。
「あなたがいたこと」
視界が滲む。
「それでも、一緒にいた時間は本物でしょ」
何も言えない。
そんな言葉、誰もくれなかった。
「……お前、優等生のくせに」
「優等生だから分かるの」
その言葉で、心臓が跳ねる。
「頼られる側って、弱いところ見せられないから」
嫌な予感。
「……壊れてても、笑うしかない」
息が止まる。
「正しくないといけないから」
やめろ。
「……殺されるまで」
頭の中で何かが繋がる。
あの子と同じ言葉。
同じ感覚。
思わず口に出た。
「……あの子、名前、紗良って言った」
顔が真っ白になる。
「お前と同じ名前だなって思ってた」
何かがおかしい。
「すげぇ優等生だった。」
「でも、たまに消えそうな顔してた」
目の前のこいつと、完全に重なる。
「……お前」
次の瞬間、崩れ落ちた。
「……私」
震える声。
「それ、私」
心臓が止まる。
「……私だよ」
理解が追いつかない。
頭が真っ白になる。
「覚えてないだけ」
そんなことあるはずがない。
でも、目の前のこいつは泣いてる。
「引っ越して、何もなかったことになって」
呼吸が浅くなる。
「でも苦しいのだけ残ってた」
全部、辻褄が合う。
屋上で感じた既視感。
放っておけなかった理由。
怖かった理由。
「……嘘だろ」
「本当」
世界が歪む。
あの日、失ったはずの人間が、
目の前で泣いている。
膝の力が抜ける。
座り込む。
顔を覆う。
「……最悪だ」
声がかすれる。
「俺、またお前に」
何を?
助けられなかった?
苦しませた?
近づいた?
分からない。
袖を握られる。
「……今度は違う」
顔を上げる。
「死んでない」
息が止まる。
「ここにいる」
涙が止まらない。
本当にいる。
触れられる距離にいる。
「また消えたら」
怖くて言う。
「今度こそ無理だ」
「消えない」
即答。
「保証は」
「ない」
正直すぎる。
「でも、一人で消えたりしない」
その言葉が、胸に落ちる。
「今度は言う。苦しいって」
もう耐えられなかった。
手が勝手に動く。
震えながら、その手に触れる。
暖かい、本物だ。
「……遅ぇよ」
声が震える。
本当に遅い。
でも、来てくれた。
橋の上で、二人で崩れたまま動けない。
夜風が吹く。
でも、寒くない。
初めて思った。
――もしかしたら。
誰かは助けられないかもしれない。
でも、隣にいることはできるのかもしれない。
目の前のこいつが泣いている限り、
俺はもう逃げられない。
逃げたくない。
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──読み終えて、しばらく動けませんでした。 橋の上で二人が崩れ落ちるシーン、紗良さんが「私だよ」と言った瞬間、胸の奥がぎゅっとなりました。悠真くんの「助けられなかった」という思いと、紗良さんの「覚えてなかっただけ」という告白が、あの夜の橋の上で初めて重なった。その場面の温度と沈黙が、本当に生々しくて…。 「正しくない姿のままで、同じ場所に座っている」という一文に、すべてが集約されている気がしました。お互いを救おうとした結果ではなく、ただ隣にいた。その静かな結び方が、とても美しかったです。 くらげさん、この物語を届けてくださって、本当にありがとうございます🤍
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