日本語の上手な店員さんに施術が始まるまでサウナやジャグジーでお楽しみ下さいと言われ、麗は部屋に一人残されていた。
麗はかなり戸惑っていた。
こんな豪華な部屋に一人残されて、不安なのだ。
だが、入浴していなくては、汗臭くてエステシャンが嫌かもしれないし、体が温まっていないと施術の際に不都合があるのかもしれない。
そう思った麗は、きっかり5分サウナに入った後、シャワーで体を洗い、ジャグジーにつかるという計画の元、一生懸命サウナで我慢し、シャワーでしっかり汗を落とした。
そして、今、麗はリラックスとは程遠いくらいきっちりとジャグジーに浸かっている。
そう、きっちりとだ。
麗は自身を真面目な性格だと思っている。
学生時代、サークルの同期の角田からしょっちゅう天然ぼけだと言われたが、全く不本意であった。
言い返す勇気もないので、へらへらしていたが、彼を含め周りが賢すぎただけである。
姉と明彦が京都大学を卒業する最後の年に、麗は近くの女子短大に進学したので、一年間だけ、姉と明彦が主催していた企業と学生が繋がってビジネスを創造するサークルに参加させてもらったのだ。
麗が入った時はもう、姉も明彦もサークルの主導権を後進に譲っていた。
しかし、それでも二人の影響力は強かったようだ。
学内はもとより他大学からも入りたい学生が殺到して書類審査まであったサークルに、麗は明彦に連れてきてもらった上に、あの姉の妹であるという立場だけで特別扱いしてもらえたらしく、そもそも審査があったことすら知らずに入った。
だからだろう、姉と明彦と同じ大学に通う角田には何か失敗する度、天然だよねと言われたり、麗ちゃんはマスコットキャラなんだし作業は俺がやるから座ってたら? と露骨に邪魔者扱いされていた。
就活のときに何かしていた方が有利だからと言う明彦が、麗のために本来ならば入れないようなサークルにコネを使って入れてくれたという立場をよくよく理解していたので、細々とした手伝いや掃除などはちょこちょこやるようにしていた。
だが、パソコン作業となるとわからないことも多く、直接企業の偉い人と話したりすることも、素晴らしいアイデアをもっているわけでもなかったため、後にサークルの会長になった有能な彼にとって邪魔な存在だったのだろう。
結局、麗は角田が怖かったのと、短大生故の就活のスタート時期の早さもあり、姉と明彦がサークルを引退するのと同時にだんだんと顔を出すのをやめていったのだ。
そうこう考えているとエスティシャンが入ってきたので、麗はよろしくお願いしますと、深々と頭を下げたのだった。
それにしても、贅沢だ。
こんな贅沢、許されるのだろうか。
否、許されない。
多分、明彦はこれまでの恋人達にしてきたような扱いを、そのまま麗にまでしてくれているのだろう。
(プライドの高いアキ兄ちゃんは嫌がるやろうけど、この旅行の費用だけでもどうにかせんと……)
そう思うのに体がふわふわする。頭もふわふわする。
それでも抗ってお金のことを考えた。
麗には虎の子のクレジットカードがあった。
姉に社会人になった時に一枚くらい作っておきなさいと言われたので、年会費無料の大手スーパーのクレジットカードを持っているのだ。
多分、限度額には収まる筈だ。
(よし、払おう!)
麗はうつ伏せで背中をエステティシャンにマッサージをされながら決意したはずだった。
……はずだった。
(とけるぅうううううー)
気持ちがよくて、意識が溶けていってしまうのだ。
こんなところにこんなツボがあったのねと、麗の体の知らない場所がほぐれていく。
自分でも知らない間に疲れていたようだ。
無理もない、結婚まで休みなく怒涛の日々だった。
結婚ってこんなに早くできるんだと麗が驚くくらい結納からの期間が短かったのだ。
それこそ、次の日には婚姻届にはサインしていたし、式場も結婚指輪も決まっていたのだから。
それでも、荷造りしたり、名字が変わったために書類書いたりしなければなかったし、その上、父が倒れたのだ。
ずっと、不摂生な生活をしてきたからだ。
父とは不仲な継母に入院の世話をしてもらうのは気が引け、麗は仕方なく率先して病室に顔を出していた。
そのせいで本当に忙しかったが、嬉しい誤算もあった。
父は入院中のため、バージンロードを明彦の父親と歩けたのだ。
義父もまた明彦同様お世話になってきた人で、どう考えても優秀な息子に釣り合わない麗をとても可愛がってくれている。
(そうだ、お義父さんとお義母さんと、お母様にお土産かわなきゃ……)
「おかえり」
部屋に戻ると、仕事が終わったのか、明彦がコーヒーを淹れている。
麗がそろそろ帰ってくると予想していたのだろう、コーヒーが苦くて飲めない麗のためにお茶まで用意してある。
まさに至れり尽くせりである。
「ただいま、あのね、アキに……明彦さん、この旅行のお金の事やけど……」
麗は明彦のペースに巻き込まれないよう開口一番に大事な話をしようとした。
スパでは、お金は部屋についているからと払わせてもらえず、その上、旦那さまからのプレゼントとして秘密にするように頼まれておりますと、流暢な日本語で言われ、価格も教えてもらえなかったので本人に交渉するしかないのだ。
「いらん。麗から金を受けとるほど貧乏じゃない」
「いや、でもだって……」
「それより、これを」
明彦が手渡してきたものを麗は思わず受け取った。
「何これ?」
「家族カード」
「いや、めっちゃ光ってるやん」
これは、外資系のカード会社が発行するクレジットカードだ。
銀色だからシルバーカードかな? と思ったが違う、小学校一年生でもないのにピカピカしてるからプラチナカードだ。店舗研修で一度だけ取り扱ったことがあるので間違いない。
指導係のおばちゃんにこれを持っている人と結婚できたら将来安泰よ、と言われた覚えがある。だが、落としたら凄まじい損害を明彦に与えそうなこのカードを持つことへの恐怖によって、麗の心は安泰とはほど遠くなった。
「家族カードは断固拒否さして」
「俺と麗は家族でないとでも?」
「そういうことやなくて、落としたらどないすんの。責任とりきれへんわ!」
もし、麗がカードを落としてそれを悪い女が拾ったとしよう。
プラチナカードなんて珍しいとカードの名義から個人情報を特定し、落とし主の夫である明彦に辿り着く。
結果、悪い女が明彦の顔面に一目惚れをして、ストーカーにクラスチェンジしたらどうするのだ。
きっと犯人は、まず邪魔な麗をむごたらしく殺すのだ。
しかし、犯人は捕まらず、自ら事件を調べる明彦は美人でやり手で酒癖が悪い女刑事と出会う。
最初は反発し合うものの協力して事件を追っていくうち、政略結婚とはいえ俺にとってあいつは妹のように大切な存在だった。と殺された麗を思い出して男泣きをする明彦の背中を女刑事が撫でる。
そして二人の間にいつしか愛が芽生え、秘密の夜を過ごす。
しかし、二人の想いが通じ合ったことを知ったストーカーが怒り狂い、女刑事が刺されそうになる。
だが、ストーカーが刺したのは明彦だった。
明彦が愛する女刑事を庇って大怪我を負ったのだ。
そして、女刑事の怒りの銃弾がストーカーに当たってストーカーは死亡。
急いで女刑事は必死で介抱するも、明彦の意識は薄れていった。
一年後、ウェディングドレスを着た女刑事と体が回復した明彦の姿が!
―完―
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